3. 作家脳

会社員人生

 前職のSMCを34歳で退職し、池下治人社長(当時)の紹介で帝王酸素に移った。
 年2回の賞与はそれぞれ100万円から60万円へと下がり、初任地の本社別館(江東区)から、中古機器を販売する子会社(虎ノ門)へ出向となり、さらには筑波山麓の工場へと僕の勤務地は転々とした。
 筑波工場では、業務意欲を失った社員の代替要員として、保税倉庫で実質的な現業職に就いた。役職は、平社員に毛の生えた程度であった。その工場を最後に42歳で退職するまで、次々と落馬する転落の人生を僕は送った。
 帝王酸素には、当初は営業職を希望して入社した。会社は産業ガスメーカーで、僕が扱ったのは医療用ガスの中でもMRI(総合病院などにある画像診断装置)に充填する液体ヘリウム(MRIの電導コイルの冷却材)だった。
 翌年には虎ノ門の子会社に出向し、役所へ提出する書類や機器の取扱説明書をつくる仕事に携わった。文章を書くことは好きだったが、僕は体調を崩し、結局は筑波の工場に回された。
 その頃、帝王酸素の副社長は佐東康夫氏だった。一方、大学時代の同級生・佐東正道は、すでに参天製薬の重役として辣腕らつわんを振るっていた。2人は仕事上の友人関係にあり、産業ガスと製薬という業界の接点が彼らを結んでいた。
 ある日、筑波工場の事務所で席に着いていた僕の耳元に、来所した佐東康夫氏がそっと囁ささやいた。
「私は佐東正道の友人だ。困っているなら、彼に現状を訴えろ!」
 だが僕は、佐東正道に助けを求める気にはなれなかった。友情に仕事を持ち込みたくなかったし、長年の関係にもヒビを入れたくなかった。彼と僕とは北大時代、下宿も近く、ほぼ毎日顔を合わす間柄だった。
 胸の奥がふっと熱を帯びた。奇妙なことに、そこにはある種の痛快さがあった。同時に、荒波に揉まれた小舟がようやく嵐の後で穏やかな入り江を見つけたような安堵にも似た感情があった。
「俺もとうとうここまで来たか!」
 それは、自嘲じちょうと諦念ていねん、そしてある意味の達成感が入り混じった、複雑な感情の雄叫びであった。旧帝大を卒業し会社にしがみついてきたが、僕が最後に得たものは結局、そういう立場だけだった。
 あれから25年以上が経っても(2026年現在)、この時の感情が僕の中に鮮明に蘇る。
 これが、僕の「作家脳」※である。

【補足】

※作家脳……怖い経験をしたり、不利な境遇に置かれても、作家体質の人間はそのことを「自分は経験したぞ!」と内心、満足に思う傾向がある(つまりいつかこのことを書いてやろうとほくそ笑む)。そういう特性を「作家脳」という。また、大人になってからでも、子供時代のことを、ディテールまで、昨日の出来事のように思い出せる能力なども「作家脳」といわれる。