通学と芸能人

ブログ・文学世界ドットコム

 高校の時、小和田君という同級生がいた。彼は練馬区の豊玉とよたまというところに住んでいた。目白通りの豊玉陸橋や西武池袋線の練馬駅もほど近い。
 当時の僕は自転車通学で彼も同じだった。いつの間にか僕が彼の家の前に自転車を止め、2人で中野区にある高校へ通うようになっていた。学校は、都立富士高といった。所要時間だが、西武池袋線豊島園駅が最寄りの僕の家からだと40分まではかからないといったところ。距離にして十数キロだったと思う。
 小和田君の家のほぼ隣りには、「ガッツ石松」が住んでいた。僕らが出発する頃、ちょうどガッツ石松も出かけるタイミングで、自宅前には大きなアメ車が止められ、エンジンがかかっていた。ガッツ石松が玄関から顔を出すと、遅れて奥さんがネグリジェのまま住宅街の道路端に立ち、夫を見送る。毎日の決まり事だった。奥さんはその後、もうひと眠りするのだろう。
 小和田君の自宅を出てしばらく自転車をこぐと、西武新宿線の野方駅に差しかかる。ちょうどその時間に、俳優の「大滝秀治」が半ズボンを履いて、愛犬と思しき大きなブルドックを連れ、その踏切を向こう側からこちらに向かって渡ってくる。大滝秀治は冬でも半ズボンを穿いていたような記憶がある。
 野方駅の構内にある停車中の電車からもよく見える看板群の中には、「おとこ教室」というのがあった。僕が見つけ、小和田君も大笑いした。よく見ると「尺八教授」と添え書きもある。目が慣れしばらくすると、それは「おこと教室」の読み間違いであることが分かり、僕らはまた爆笑した。
 そして住宅街の坂道に差しかかる。ここを上り切ると野方警察署である。その警察署の少し手前のところに、背後に鬱蒼とした木立のある古い大きな門構えがある。当時の「北島三郎」の邸宅である。坂道になった道路の反対側には、なぜかテレビ局御用達の、電飾や電光掲示板などを設計製造するこじんまりとした会社がある。工場も同じ敷地内にあった。
 さて、野方警察署を通り過ぎるともう国鉄中野駅(現JR中野駅)である。その少し手前に三角形のサンドイッチのような形状が目印の「全国勤労青少年会館」があった。「通称:中野サンプラザ」である。
 すぐ横には電話ボックス(当時の公衆電話)があり、よく見ると、その中に5人もの若者がすし詰めになっていた。彼らは、当時名声を博していたアイドル・グループの「フィンガー5」である。「明星」など、アイドル雑誌の表紙撮影でもしていたのだろうと思う。下校時の自転車から偶然目撃した。小和田君とは帰りもほぼ毎日一緒だった。
 やがて中野駅である。中野駅北口に端を発するアーケード街のどん詰まりには「中野ブロードウェイ」というマンションがあった。超高級物件である。今ではレトロマンションの範疇に入る。そこに「沢田研二」が住んでいた。僕が、小学生の頃である。
 実は僕は小学生の時は中野区の住人で、母校都立富士高とは神田川を挟んで反対側のところにあった、父が勤める電々公社(現・NTT)の官舎に、家族3人で暮していた。
 その官舎のすぐ目の前には「京王プラザマンション」という大型の高級マンションがあり、僕がいた当時はそこに、ザ・ドリフターズの「加藤茶」が住んでいた。マンション1階には「モンモランシー」というレストランがあり、富士高の先生や生徒も時々利用していたのではないだろうか。
 それを過ぎて今度はまた上り坂に差しかかったところに僕らの富士高がある。いわずとしれた、童謡歌手「安西愛子あんざいあいこ」の母校(当時は第五高等女学校)である。
 僕と小和田君のクラスには多湖たご君がいた。彼は名門一家の一員で、国鉄東中野駅(現・JR東中野駅)のすぐ裏手に、一族で邸を構えていた。その南側に、目立つ一棟の背の高いマンションがあった。そこに、「浅野ゆう子」が住んでいた。彼女は歌手でスタイルもよく、そのビキニ姿はグラビア誌を飾っていた。
 多湖君は、当時も進学校だった富士高の中でも出来がよく、「東大合格間違いなし」と目されていた。その彼がある時、いった。
「部屋から浅野ゆう子のいる窓がよく見えるんだ。お陰で勉強が手に付かないよ~」
 結局、一橋大に進学した。現役合格である。彼が東大に行かなかったのは、もしかすると、浅野ゆう子のせいだったのかもしれない。