虎ノ門から葉桜へ—組織と信念—
春風に枝がそよいでいる。すでに花は散り、よく見ると、若葉が顔を覗かせている。
その葉桜を見上げる窓のこちら側には、今まさに旅立とうとしている父が介護ベッドに横たわっていた。
「お父さん」
額を手で触れながら顔を覗き込むようにして呼びかけると、声には出せないが辛うじて首を縦に振る。今晩あたりが峠だろうか。そういえば父はここ数年、山本さんのことをよく口にした。
山本さんというのは、父が勤めていた電々公社(現NTT)の先輩である。
虎ノ門にある電々公社の本社フロアーで、父は矢継ぎ早に声をかけられた。
「やあ、小倉さん。元気でやっているかい」
「これは山本さん」
「なんだ、まだそんな仕事をしていたのか」
「はあ」
「今度、人事に、小倉さんのことをかけあってみるよ」
声の主は、北海道出身の頼りになる先輩だった。いつものように柔和な笑みをたたえていた。先輩とは、北大出身の山本さんである。ここは、もとは逓信省という役所だったから、人を語るのに必ず学歴がついて回る世界でもあった。そんな中にいて、山本さんはとても人望の厚い人だった。
父は、昭和二十四年に大学を卒業して逓信省に入省した。それが、昭和二十七年には、日本電信電話公社となった。いわゆる電々公社の誕生である。
頃は昭和三十一年、父は三十一歳、山本さんは七つ上の三十八歳である。まだ梅も咲かない真冬の虎ノ門だった。
日本のまわりを見渡すと、太平洋戦争が終わってそれほどときをおかない昭和二十五年に朝鮮戦争が勃発する。三年後の昭和二十八年には休戦するが、ご存じのとおり、朝鮮半島の三十八度線では、今もって緊張状態が続いている。
これが終戦ではなく休戦という言葉を使う理由だ。北朝鮮の背後には当時のソ連と中国があり、韓国の後ろにはアメリカが控えていた。絵に描いたような東西冷戦の構図だった。
虎ノ門にも桜が咲こうというまさにその同じ年、つまり昭和三十一年の三月に事件は起きた。
朝鮮海峡(対馬―釜山)は、朝鮮戦争休戦後も危険な海域だった。韓国の初代大統領である李承晩が、隣国に対して独断で、軍事境界線を設けていたからだ。
誤ってこの海域に入り込むと、韓国軍による拿捕や銃撃が行われる可能性があった。
だが、ここには、日本と韓国を結ぶ海底ケーブルが敷設されていた。専用線として、もっぱら米軍がこれを利用していた。軍事上の重要な通信インフラである。
これが故障したというので、米軍から修理の要請があった。電々公社は、海底敷設船、千代田丸に出航命令を出した。
しかし、労働組合本社支部の委員長だった山本さんは、乗組員の身の安全を考えると、船の出航を黙って見過ごすわけにはいかなかった。早速、千代田丸の母港がある長崎の、労働組合分会に電話を入れた。
「すぐに、出航に応ずるなという『闘争連絡』を出します。頑張ってください」
山本さんがいうと、
「わかりました。こちらの分会では、山本さんを信頼して一切をお任せします」
力のこもった声が返ってきた。
これが世にいう「千代田丸事件」の端緒である。
山本さんは北海道の名寄の生まれである。父親は彼が三歳のときに亡くなっている。母親は、残された山本さんと二人の姉妹を女手一つで育てなければならなかった。はじめは農家で臨時の日雇いとして働いた。のちに旭川の美容学校で勉強して美容師となり、名寄の町に美容院を開店する。
母親は、息子の山本さんだけには学問をさせてやりたいと考え、切りつめた生活の中で、大学まで進ませてくれた。
北大在学中から戦後まで、つかず離れずではあるが、同郷にそれなりの女性もいた。しかし、結核という重荷を抱えていた山本さんは、その理想と病とを思うとき、自分には妻や家庭は必要ないと心に決めていた。
昭和三十四年の夏、吉田書記長が亡くなった。山本さんとともに電々公社から解雇通告を受けた、労働組合本社支部の三役のひとりである。事件に端を発した復職闘争は長期化し、彼は心身を蝕まれていた。
早朝、彼は自宅のトイレで、首と手首の動脈に安全カミソリの刃を入れた。団地の和式便器の白い水面にサッと鮮血が飛び散った。日が昇り家族が遺体を発見した。窓の方を振り返ると、芝生の目を背けたくなるような濃い緑の照り返しが、否が応でも視界に入る。妻と六人の子供たちが遺された。新潟出身の彼は元来、粘り強い性格だった。その強さが却って彼を追い詰めたのではないかと山本さんは思った。仲間の死に心の中で大泣きした。
同じ年、近くの公園の銀杏並木が色づく頃、名寄の母親が上京してきた。予てから糖尿病と高血圧を患っていて、山本さんのアパートに荷物を置くなりバッタリと倒れ、寝たきりとなった。
病床の母親がある晩、山本さんにいった。
「おまえ、郁子さんのこと、どう思う?」
郁子というのは、件の山本さんと同郷の女性である。彼が北大の学生だった時、雪の中で頬を真赤に染めた彼女は、六歳年下の女学生だった。芯の強い女性である。
山本さんは、多忙な毎日を送っていたから、母親の面倒を十分にみることはできない。その母親の強い勧めもあって、とうとう山本さんは、結婚を決意した。もし結核が再燃したら、という気持ちには蓋をした。
郁子としても、裁判で復権を目ざす夫の闘いを陰で支えながら、義母を看なければならない。新婚世帯の窓の外には、木枯らしが吹き荒れていた。昭和三十五年のことである。山本さんは四十二歳になっていた。
一方、山本さんたちが対峙することになった電々公社の先鋒は、遠藤正介という人物だった。本社の労務課長だ。事件が起きた昭和三十一年に芥川賞を受賞した作家遠藤周作の実兄である。
実は山本さんと遠藤は同期である。遠藤は一高、東大卒の秀才だった。二人とも、電々公社では幹部採用である。そして何よりも「俺」「お前」と呼び合う仲だった。
ある日、二人は、本社内の廊下でばったり顔を合わせた。
「よお、山本」
「おう、遠藤」
「最近はもうこんな口を利いてないな」
「そうだな。俺たちは今、法廷闘争の只中だからな」
山本さんは、千代田丸の出航を拒否したことで、電々公社から解雇通告を受けた。そのことで最高裁まで争い、事件発生から十三年という歳月を経て勝訴した。昭和四十三年のことである。東京の商店街では歳末商戦が勢いづいていた。
五十路を迎えようとしていた山本さんは、その後復職し、調査役という役職で、日比谷に移転した本社で淡々と勤務を続けた。部長級だが、部下はいなかった。
かたや遠藤は、電々公社の総務理事にまで昇りつめた。電々トップの総裁、副総裁に次ぐ地位である。
同期であり、腹を割って語り合う仲の二人が、ひとつの出来事により、敵味方のようにその立場を分かってしまった。私は、父から何度となく、この話を聞かされていた。
北関東の小さな町に男ばかりの三人兄弟がいた。大正十四年、そこに次男として生まれたのが私の父である。その埼玉県羽生市のすぐ北側には利根川が流れていて、父はその日本一の暴れ川で泳ぎ、心身を鍛えた。父の父親はそこでスーツの仕立てをしていたが、父が中学校へ上がる前に亡くなってしまった。そのため、父の母親が近くの農家を手伝い、その手間賃で父たち三人の兄弟を養った。
そんな父は、今でいう小学校六年生のときに、先に東京に出ていた長兄を頼って上京する。それ以降、父は自分の力で仕事を探し、大学まで卒業した。
父は、山本さんにそんな自分と同じ匂いを感じていたのではないだろうか。
山本さんが十三年の闘いを経て職場に復帰したのは、私が小学校三年生のときだった。当時、父は都内の電話局で課長を務めていた。父は、権力に屈しない生き方を貫いた山本さんに、同じ男として、そして人間として、尊敬の念を抱いていた。
後年、北大は私にとっての母校ともなった。幼い頃より父から「山本さん」「山本さん」と、その名前を繰り返し聞かされてきた。山本さんへの評価が高ければ、その母校である北大への父の評価もまたいわずもがなであった。
高齢となった父は記憶も途切れ途切れになっていたが、これを一読して、それがまた一本につながった、と笑顔を見せた。
父は、二〇二一年、葉桜の季節に仲間のもとに旅立った。享年九十五歳であった。
あの世で父は山本さんと再会することができたのだろうか。
了
【説明】
僕は50代の後半になって文筆家を志しました。これはその頃書いた作品です。それを、その後7、8年かけて手を入れていきました。内容は父からの聞き書きです。
昨年の「文芸思潮」エッセイ賞では「優秀賞」でしたので、今年は「最優秀賞」がとれればいいなと思っていたのは事実です。
一方、この作品は、話の詰め込み過ぎで、読後の文学的余韻が乏しい、と僕が師事しているエッセイスト・近藤健からは感想をもらっていました。
つまり、もう少し深堀して(話を絞って)、文学性を磨いた作品にしてください、とのアドバイスだったと思います。
それは分かっているのですが、「言うは易し、行うは難し」でなかなか紙面にそれを実現することができません。「少年老い易く、学成り難し」という言葉も脳裏を過ります。
道はまだまだ続きます。


