オーディオ専門店と青春

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オーディオ専門店と青春

 今から50年前、僕は18歳だった。唯一受験した千葉大学の建築学科を不合格になり浪人生活を始めていた。
 駿台予備校の入学試験があり、不合格だった。
「俺は予備校にも入れないのかっ」
 小学6年生に上がる時、電々公社に勤める父親が、練馬に家を建てた。54坪の土地に32坪の2階建てが、都内にしてはばかに広い、キャベツ畑の裏にあった。
 中学生の時、グラント・ハイツという米軍住宅の近くにあった赤津君の家から、子犬をもらって来て庭で飼った。「チビ」と名付けた。
 結局、予備校は無試験の代々木ゼミナールに入った。種別は「東大進学コース」。実態と異なる単なる名称だった。
 僕の家は練馬中学も近い高台に建っていて、西武線の豊島園と中村橋が最寄り駅だった。代ゼミにはその中村橋から定期券を購入し通った。
 中村橋は駅の手前が商店街になっていて、その中に、アトム電気という電気屋があった。
 社長がオーディオ・ファンで、2階に自宅のある本店とは別に、同じ商店街の少し離れたところにある、間口の狭いビルの1階を、オーディオ専門店としていた。正面は、入口の自動ドアも含めて、すべてガラス張りだった。
 そこに伊藤さんという担当者がいた。背が異様に小さい。007シリーズに出て来る小人のようである。つまり、伊藤さんは、身体障害者だった。
 だが、卑屈なところは微塵もなく、明るく、外交的な性格で、商店街を行くガラス越しの人を呼びとめては、店内でお茶をふるまった。僕もそのお茶がきっかけでこの店に立ち寄るようになった。
 オーディオ専門店というだけあって、狭い店内には様々な高級機種が並んでいた。中でも、日立のHS-500というスピーカーは当時から名機として名高かった。
 20ワットの出力は小さいようだが、このスピーカーは、通の間では、クラッシック専用として認識されていた。小さめの出力であることが、実際のコンサート会場の雰囲気を再現する(コンサート会場での生オーケストラの音量は思った以上に小さい)。当然だが、予備校生に手の出る価格ではなかった。
 もうひとつ、デンオンのプレーヤーが展示されていた。レコードを置くターンテーブル直下の面が、なんと白い大理石で出来ている。
 重量があり、微振動を拾わない優れもので、名演レコードを忠実に再現する能力があった。6万円だった。社長の奥さんが近くの協和銀行で僕名義の口座をつくってくれた。そこに6万円が溜まったら引き渡してくれる、という約束で、僕はそのプレーヤーを予約した。商品には売約済みの黄色い札が貼られた。
 伊藤さんであるが、オーディオの営業マンとして、暇になる時間帯には店を閉めて、近くの家を個別訪問していた。中村橋商店街の中には、当時の東京新聞の社長宅などもあった。伊藤さんが足で稼いで来た情報である。
 中村橋の駅も近い、商店街の一画に、小規模だが小洒落たタイル張りのマンションがあった。45㎡ほどの2DKの部屋に兄妹が暮している。彼らは韓国人だった。
 伊藤さんが既に何度も訪れていて、彼らとは気心の通じる間柄になっていたようだ。
 その兄は、窓際に置かれた小さな机に行くと、引き出しを開け、そこにあった拳銃を見せてくれた。弾もあった。本物だという。
 朝鮮総連(北朝鮮)に属する、スパイだと兄は自称していた。中年というにはまだ若い兄妹である。
 当時はまだ、北朝鮮による拉致事件が世論を賑わせる以前であったから、僕らには、朝鮮総連 – 北朝鮮 – スパイという一連の言葉の意味するところは、さっぱり分からなかった。
 しかし、今考えて見ると、北朝鮮のスパイなんて、ニュースの中でだけ見るものと思っているかもしれないが、実は意外と近くに住んでいたりしたのだな。
 その後、僕は、伊藤さんとは、浪人中にも関わらず、群馬県の水上温泉をはじめ、いろいろなところに泊りがけで遠出した。
 旅館の中居のおばさんがいった。
「あんた偉いわねえ」
 僕には意味が分からなかったが、後で考えると、つまり小人のような伊藤さんと連れだって歩く僕の性根を褒めたものだったのだろう。僕はそんなことはまったく気にかけたこともなかった。
 伊藤さんの話によると、商店街の近くには、実にいろいろな人が暮している。その後、このアトム電気・オーディオ店では、男女の出会いもあったりして、実に様々なエピソードが紡がれていった。