五島昇とプータロー

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五島昇とプータロー

 亡くなった佐藤愛子先生の元ご主人は、筆名・田畑麦彦(本名・篠原省三)という。その父親が篠原三千郎で、五島慶太の腹心として知られた人物である。ふたりとも東大法科の卒業生で、戦前の東横電鉄(のちの東急)の経営を支えた。
 五島慶太は、いわずと知れた東急グループの創業者で、当時は「強盗慶太」と渾名あだなされるほどの剛腕経営者だった。三越百貨店の乗っ取りを企てたこともあり、今でいえばM&Aの先駆けのようなことを平然とやってのけた。
 その五島慶太は、吉田茂の要請で一年ほど運輸大臣を務めたことがある。その不在のあいだ、会社の実務を預かったのが篠原三千郎である。そして、五島慶太の後を継いで総帥となったのが五島昇だった。
 五島家は現在も世田谷区上野毛に一族で屋敷を構え、その一画に五島美術館がある。『源氏物語絵巻』などで名高い美術館である。
 実は、この五島美術館のある高台一帯には、かつて世界救世教の教祖・岡田茂吉の邸宅があった。岡田邸は傾斜地に建ち、藤棚があったと教団の資料にも記されている(現在も残っているのではと思う)。
 五島家の敷地と岡田家は隣接しており、境界線をめぐって両家の見解が食い違い、岡田茂吉と五島慶太が互いに一歩も引かなかったという逸話が残る。
 宗教家というと、何事にも下手に出るようなイメージを持たれがちだが、岡田茂吉はそうではなかった。「間違っていることは間違っている」と、どんな些細なことでもごまかさず主張する人物だった。
 こうした話に触れたことが、僕が救世教に興味を持つきっかけとなった。
 やがて入信し、申年生まれの布教師が僕の教師役となった。僕は戌年だから、教師は二歳年上という計算になる。
 その頃、東急グループの総帥・五島昇が重病に倒れ、当初は自宅療養だった。岡田家と五島家には、境界線のいざこざを含めて浅からぬ縁がある——布教師はそう語った。
 その布教師から、僕は何度も五島家への同行を誘われた。目的は浄霊、いわゆる手かざしである。手のひらを相手の身体にかざして癒やしをもたらすというものだ。
 当時の僕は、製鉄会社を辞めたばかりの、ただのプータローだった。社会的には何者でもない若造が東急グループ総帥の病床に向かって……とは、どう見てもおかしな構図ではあった。

 余談だが、天理教は救世教をカルト視しているようだ。しかし、その天理教にも「おさづけ」という儀式があり、これで病気が治るとされていた。
 のちに、それだけでは足りないということで、奈良県天理市に「天理よろづ相談所病院」が建てられ、布教師と医師が協働で病人を看る体制が整えられた。
 見学したことがあるが、中野区富士見町の立正佼成会の「佼成病院」(現在は杉並区に移転)も、院内に宗教施設を併設しており、どこか天理病院を思わせるものがあった。
 当時の後日談である。
 岡田茂吉は野々村仁清の『藤壺』(正式名称:色絵藤花文茶壺・現在:国宝指定)を手に入れようとしていたが、資金が不足していた。そこで予てより係争中であった上野毛の邸宅を五島家に売却した。
 そのお陰で現在、MOA美術館(熱海市にある世界救世教の美術館)には、この『藤壺』が常時展示されている。変な話だが、結局この『藤壺』は、上野毛の土地をめぐって争った岡田と五島が、折半で購入したようなものである。
 『藤壺』は旧華族であった京極家から岡田茂吉が購入した。昭和25~35年くらいの時期ではなかったろうか。斜陽であった旧華族の手元に置けば、いずれ、散逸するか、破損するかの憂き目に遭うことが想定される。