夢を追う覚悟|第15回「文芸思潮」エッセイ賞 (2020年)・佳作

「文芸思潮」エッセイ賞

夢を追う覚悟

 私は、勉強が苦手である。だが、頭は決して悪くない。インプットさえ上手くいけば、素晴らしいアウトプットも期待できるのだ。ただ、そのインプットには、とても手間がかかるのである。
 そんな私には、こんなとんま(・・・)な思い出がある。私立中学受験を目論(もくろ)んで、小学五年生の私は、受験勉強に勤(いそ)しんでいた。社会科で、全国の地方都市の概要を、頭に叩き込んでいたのである。テキストには——埼玉県の川口市では「いもの工業」が盛んである——と書かれていた。私には、この「いもの工業」の意味が分からなかった。後でいろいろ考えてみると、その辺りには畑もあるのだから、「芋(いも)の工業」と読むのが妥当だろうと、思うに至ったのだ。つまり、「川口市はさつま芋を使った加工品を作る産業が盛んである」と解釈したのである。
 だが、後年高校へ入学して、『キューポラのある街』という吉永小百合主演の古い映画を観て、私は愕然(がくぜん)とした。
 映画の舞台は、たくさんの鋳物(いもの)工場(こうば)が立ちならぶ埼玉県の川口市だった。キューポラというのは、鋳物の原料となる鉄を溶かす炉のことである。そうか、あのテキストの「いもの工業」というのは、「芋の工業」ではなくて、「鋳物工業」だったのか!
 私は、テキストの作成者にいいたい。「いもの工業」ではなくて、「鋳物工業」と漢字で表記して、ふりがなでも振っておいてもらえれば、いくら私でも、こんなとんまな誤解をしないで済んだのだ。
 このエピソードに象徴されるように、私の勉強は、いつもスムーズにはいかなかった。還暦を過ぎたいまでも、それは変わらない。私がものを理解して飲み込むのには、手間がかかるのである。
 結局、私は近くの区立中学へ入学することになった。
  
 高校一年生のとき、父が東京大学の学生課へ赴き、家庭教師を頼んで来た。すると、工学部在学中の超エリートが、ひとり息子である私の家庭教師として、拙宅(せったく)へ来ることになった。一回二時間で週二回、食事つきという条件である。アルバイト料は、たしかひと月二万五千円ほどであったと思う。
 赤門から来た若い先生は、半年ほど経ったあるとき、拙宅へ電話をかけてきた。母が受話器をとると、
「おぐら君を教えるのなら、もっとほかに教えたい子がいるんです……」
 と告げたのだ。つまり、私は匙(さじ)を投げられたのである。
 というのも、私は先生の出した課題などには目もくれず、あれはなぜ、これはどうしてと、質問ばかりを繰り返していたからだ。
 私にものを教え込むのは、至難の業だったのである。
  
 五十歳を過ぎたころ、私は実は発達障害であることが分かった。専門医による診断である。私の要領が悪く、協調性にもやや難があったのは、この障害の影響が出ていたからなのだろうと思う。そして、発達障害というのは、生まれながらの障害である。
 それでも、私は二浪の末、地方の国立大学に合格することができた。受験勉強の疲れからか、大学一年生のときに早々(はやばや)と留年を決め、一年生を二度やった。結局、私は二十五歳のときに、ようやくこの大学を卒業することができたのである。
 当時は、まだバブル崩壊の前であったから、そんな私にも仕事はあった。私は、とあるメーカーに就職することができたのである。が、その会社は性に合わず、それから二度、転職をすることになる。つまり、都合三つの会社を渡り歩くことになったわけである。分野は違うが、そのどれもが製造業であった。ちなみに、私は経済学部の出身である。
  
 三つめの会社に入って、四十一歳を迎えたころ、私は筑波山を望む工場にいた。冬になると日本海側からの冷たい季節風が、この霊山を乗り越え、こちら側へ吹き込んで来る。筑波おろしである。このからっ風のお陰で、気象台が発表する気温以上に体感温度は低い。それに、工場の周辺は広大なキャベツ畑で風をさえぎるものは何もないから、その冷たさはひとしお身に応える。当時、私は自律神経失調症を患っていて、その症状は一進一退であった。そういう事情もあって、私はつくば市にあるこの工場へ転勤になっていたのである。私の職責は、事務所でデスクワークをこなす一方、工場での現業にも汗を流すという、文武両道の仕事であった。
 だが、要領が悪く、愚直であった私は、無理を通して、結局自分の病をさらに悪化させてしまった。それで私は、会社を休職せざるを得なくなったのである。
 私が休職に入ったその翌年は、西暦二〇〇〇年である。テレビは、千年紀、ミレニアムといって騒ぎ立てていた。その春、四十二歳の厄年(やくどし)を迎えていた私は、とうとう会社を退職しなければならなくなった。
「ここまで頑張ったのになぁ……」
 単身者向け社宅のベランダで、私は霊山・筑波山を睨(にら)みつけながら、呟(つぶや)いていた。
 当時もいまも、私は独身である。病を押して仕事に励んでいた私には、結婚するなどという精神的余裕は、まったくなかったのである。
  
 その後十五年にわたり、私の人生は停滞することになる。精神科の薬を飲んで、ぼんやりするだけの時間を過ごしていたのだ。その間(かん)は日本経済も低迷し、失われた十五年などと呼ばれている。私も時代も、同じように十五年の間、苦しみのときをやり過ごしていたのである。
 こうやって長い間、なにごとにも挑戦しない生活を送っていると、親やご先祖様から受け継いだわずかな徳も、使い果たしてしまう。徳がなければ、世の中に何の光も放つことができない。別のいい方をすると、私は自分自身の存在意義を見失っていたのだ。自分はいま何のためにここに在るのだろうかと自問自答する、そんな新たな苦しみが、心の中に生じていたのである。
 夜中、休んでいる部屋の、北側の窓の向こうから、ドスンッという大きな物音が聞こえてきた。あわてて飛び起きて、腰高のその窓を開けると、庭の、柿の木の太い枝から、首を吊った男の屍(しかばね)がぶら下がっている。目を凝(こ)らして見ると、それは私だった。寝返りを打った拍子にふっと目が醒(さ)めると、額に大粒の汗をかいている。私は、悪い夢を見ていたのである。
 首でもくくろうかというところまで、私の意識は追い詰められていたのだった。

 人生はいつからでもやり直しが利くと、アドバイスする人がいる。本当にそんなことができるのか、私には分からなかった。分からなかったがとりあえず、私は自分の人生を棚卸しして、その中から、今後人生を送っていくために必要なヒントをひろい出そうと、思い定めた。棚卸しとは、つまり、自分のこれまでの人生を総ざらいすることである。そのためには、自分史を書いてみるのが一番いいのではないかと、思い至ったのである。
 二〇一六年の新春に、私はその作業を開始した。併せて、自分のルーツである父の自叙伝も書き上げた。高齢の父を取材し、大喧嘩をしながら、一文字一文字つづったのである。そして、もう一方のルーツである母の子供時代も、小冊子にまとめた。

 忘れていたが、私には、中学生のころ遠藤周作の書いた本を読んで、作家になることを夢みていた時期があったのだ。
 高校に入ってからも、文庫本を買い、とりわけ白樺派とよばれる作家たちの本をよく読んだ。中でも、武者小路実篤や、白樺派ではないが、井上靖の作品が、私の大のお気に入りだった。
 そんな読書生活を送る中で、自分も作家になれたらどんなに素晴らしいだろうと、思わないはずはなかった。が、当時はまだインターネットもなく、どうすれば自分の夢が叶(かな)うのか、その道標(みちしるべ)を見つけることさえ、私にはできなかった。分からなくても、とにかく行動に移せばよかったのだが、そこまでの勇気は、当時の私にはなかったのである。
   
 自分や父母の人生をつづってみて、私の中に、ある思いが高じてきた。還暦もちかい年齢にはなったが、今度こそ、挑戦をしてみたくなったのだ。いや、挑戦しなければならなかったのである。そうしなければ、自分はもう首をくくるしかなかったのだから。
   
 そんな不退転の覚悟で、私はある文学賞に挑んだ。随筆を専門とする同人誌が主宰するコンペティションである。季節は、盛夏を迎えていた。吹き出す汗をものともせず、私は創作に邁進(まいしん)した。その甲斐あってか、トップには届かなかったものの、奨励賞を獲得することができた。私のこれまでの人生をつづった作品が賞をとったのである。つまり、私の失敗だらけの人生も決して無駄ではなかったと、初めて他人(ひと)様に認められたのである。私は嬉しかった。感無量であった。——私は生きていてもいいのだ…… そんな温かい想いが、体中を駆け巡ったのである。
   
 私は、一昨年のこのできごとに背中を押され、今度こそ作家になる夢と真正面から向き合おう、と心に決めた。
 そんな私は、今日もこうして、原稿用紙に向かっている。

【作品紹介】

自分としては不本意な出来でした。でも、等身大で好きな作品です。

🏅「文芸思潮」エッセイ賞で佳作を受賞 賞状