父とすいとん|第20回「文芸思潮」エッセイ賞 (2025年)・優秀賞

文学賞受賞作品

父とすいとん

 今思えば、僕はお父さんっ子だった。小さい頃はいつも父の膝でテレビを見ていた。東京は中野にある電々公社アパートの2DKの六畳間でのことである。
 当時、電々公社(現NTT)はまだ民営化前で、父は公務員であった。
 そんな父は、毎週日曜日ともなると、台所のテーブルに材料を広げ、「すいとん」を拵(こしら)えた。うどん粉に少量の水を混ぜてこね回し、生地ができあがったら、手のひらに取って団子のように丸める。それとは別に、母が野菜入りの醤油(しょうゆ)味のだし汁を大鍋に用意していた。 そこに、丸めた生地を次々と放り込み、ぐつぐつと煮込む。額の汗を拭(ぬぐ)うついでに、頬についた白いうどん粉を父は無意識に払い落としていた。

 それにしても、父はなぜ、あんなにすいとんが好きだったのだろう。四年前の春に父は亡くなったが、その少し前、聞き書きで、父の、東京は本郷での下宿時代の思い出を文章に綴(つづ)った。その中にも、すいとんは登場する。
 父のすいとん好きのルーツは、案外、このあたりにあるのではないだろうか。
  
 父は、埼玉県最北部の利根川を臨む町、現在の羽生市(はにゅうし)に生まれた。そこから上級学校へ進学するため、上京していた。
 父の父親はその時すでに他界し、母親は小作農家として細々と百姓を営んでいた。
 羽生尋常小学校の最終学年である六年生で単身実家を出た父には、その後、さまざまな不都合が降りかかり、進級が遅れていた。
 そのころ都内にいた父は、当時の都立第九中学校(現在の都立北園高校)の卒業を待たず、豊島商業学校に転校していた。
 中学校より実業学校である豊島商業の方が、一年早く大学受験の資格を得ることができた。余裕さえあったら、第九中学校を卒業したかったと父はいっていた。当時、板橋の東京都立第九中学校は、政財界に多数の人材を輩出する名門であった。
 元芸妓(げいぎ)の大家さんが切り盛りする南陽館(なんようかん)という下宿が、そんな父の生活のよりどころだった。下宿とはいうものの賄(まかな)いはなく、父はもっぱら外食券食堂で食事を済ませていた。
 時代は、昭和十九年から二十年にかけての戦時下で、場所は、国鉄(現JR)御茶ノ水駅近くの本郷一、二丁目界隈(かいわい)であった。
 下宿近くには中華料理屋の博雅(はくが)やお茶の水料理学校という各種学校、外食券食堂や映画会社松竹の社長宅などが軒を連ねていた。そして、お茶の水美容学校があった。
 そのお茶の水美容学校は洒落(しゃれ)た洋館で、創設者は、山崎晴弘(はるひろ)という人物である。
 当時山崎氏は、本郷の町会長を務めていた。背は小柄で、脚にはいつもゲートルを巻きつけていた。
  
 日本国内では、昭和十九年末から米軍機による空襲が本格化する。B29は編隊で飛来しては、胴体の開口部から、雨あられと焼夷弾(しょういだん)を降らせていく。焼夷弾にはナフサという原油が充填(じゅうてん)されていた。そのため、炎上する街からは、鼻を突くような油の異臭がした。当時の民家は、ほとんどが木造建築で、焼夷弾による火災の鎮火は、まず不可能であった。
 町会長は、町内会の人々を安全に防空壕に誘導する責任者だった。
「空襲警報発令」
「空襲——」
「空襲!」
 父は、ブリキ製のメガホンを持って、町内を触れ歩く役職を、この町会長から任されていた。
 町会長には、富栄(とみえ)さんという娘がいた。彼女は、彼女の父親同様、小柄な女性だった。残された写真によるとなかなかの美人である。父より六歳年上だ。
 その富栄さんが、御茶ノ水へ戻っている時に、町会長が手招きして、父を自宅に呼んでくれたことがあったという。
 田舎から上京して苦学している学生に、娘の手料理でも振る舞おうと考えたのだろうか。
 家の中では富栄さんがすでに台所に立ち、忙しく手を動かしていた。彼女はその合間に顔を出し、
「康次(こうじ)さん、ご出身は?」
「どこの学校に行っているの?」
 と、父に声をかけてくれたそうだ。
 父の記憶によると、献立は、麦ごはんや雑炊、豆や芋類など野菜の煮物、具の少ない味噌汁や海藻麺(かいそうめん)、それにすいとんといったところだろうか。
 当時は、国から米が配給されていた。各家庭には、米穀通帳も配布されていた。
  
 ほかに外食券というものがあり、それで食事のできる場所があった。これが外食券食堂である。外食券を使うとその分、米穀通帳から米の配給が減らされる。ただ海藻麺は例外で、外食券なしで各戸に配給された。
 海藻麺とは、海藻を乾燥させて粉末にし、その粉でつくった麺を薄味のスープで食べさせる、という代物だった。味は、いうに及ばずである。
 すいとんだが、小麦粉に水を加え、こねて団子ぐらいの大きさにし、味噌汁や醤油味のだし汁に入れて煮たものである。当時は、それでもかなりの贅沢(ぜいたく)料理だった。そして、父は終生、このすいとんが大好物であった。
 
 父は豊島商業学校で卒業証書を受け取るひと月前に、現役兵として大日本帝国陸軍の東部第八三部隊に入隊した。昭和二十年二月のことであった。卒業証書は終戦後除隊した後で受け取りに行くことになった。
 入隊から半年後の八月には同じ陸軍の東京師管区司令部に転属となった。司令部での配属先は、参謀部第二事務室というところだった。赤坂にあった。仕事は、各部隊への命令伝達と無線や電話機の保守管理であった。父は当時、自分の仕事を、兵隊の任務というよりも、通信技術者養成のための訓練のように感じたという。
 戦後、父は大学の高等師範部を卒業して、電気通信省(後の電々公社、現NTT)に入省することになるが、兵隊として同じ分野の仕事をしたことはまったくの偶然であった。
だが、それが、父が電気通信省へ入省する契機(きっかけ)となったのは事実である。昭和二十四年四月のことであった。
  
 一方、富栄さんは、昭和二十一年、二十六歳の時、美容師として三鷹で働くようになる。昼は友人の美容院に立ち、夜は進駐軍のキャバレーに併設された美容室で腕を振るった。
 翌昭和二十二年、進駐軍での仕事の帰り道、屋台のうどん屋で酒を飲む太宰治と出会う。富栄さんは二十七歳になっていた。
 彼女の兄が旧制弘前高等学校出身で、太宰治の二年先輩に当たる。さらに彼女の下宿が太宰の行きつけにしている小料理屋の斜め向かいにあった。そんなことで話がはずみ、二か月後には、
「きみ、僕と死ぬ気で恋愛してみないか」
 と口説かれる。
 紆余(うよ)曲折(きょくせつ)の末、一年後の昭和二十三年六月十三日、二人は深夜の玉川上水で投身自殺を遂げる。
 その六日後の六月十九日になって、この二人の遺体が発見される。太宰治はすぐに運ばれ手厚く安置された。一方、富栄さんには粗末なゴザがかけられただけで放置されていた。傍らで彼女の父親が呆然と立っていた。その様子が写真に撮られ新聞に掲載された。父は、同じ新聞でこの事件を知った。
  
 さかのぼって昭和十九年四月、富栄さんは、三井物産に勤務する男性と結婚したが、夫はすぐにマニラ勤務となる。そこへ米軍の侵攻を受け夫は現地で徴兵され、その後すぐに行方不明となる。そして、終戦後の昭和二十二年七月には、夫の戦死公報が届く。結局、富栄さんはマニラには赴いていない。
 つまり、富栄さんは結婚はしたものの、夫と一緒に暮らしてはいない※。富栄さんにとっては、太宰治との束の間の同棲が、実質的な新婚生活であった。
 富栄さんは、腕のいい美容師であったこともあり、当時の独身女性としてはかなりの貯蓄を持っていた。結核と心を病んでいた太宰治のために、身辺の世話から、編集者など客の接待、看病までこなし、彼女は、全財産を使い果たしてしまう。金額は、二十万円。昭和二十三年当時の小学校教員の初任給が二千円であった。
  
 そんな富栄さんとは特別なつき合いがあったわけではないけれど、彼女のこんな結末を知り、なんともいえない、哀しい気持ちになった。その時、父は、法政大学・高等師範部の学生であった。

 その六月十九日は、太宰治の晩年の作品『桜桃(おうとう)』にちなみ、「桜桃忌(おうとうき)」と名づけられた。太宰治の命日であり、誕生日でもある。夏をあらわす季語ともなっている。
  
 僕は、生前の父から何度もこの富栄さんの話を聞かされている。口にこそ出してはいわなかったが、父は彼女に対して、淡い恋心を抱いていたのではないだろうか。
 長い間、父のすいとん好きと、富栄さんと太宰治との悲恋は、僕の中では別の事実として存在していた。こうして、改めて文章に綴(つづ)ってみると、それらは「すいとん」という一つのキーワードで繋がっていた。
  
 だが、今ではもうその真相を父に確かめることはできない。

※その後、NHK特集番組から得た情報によると、富栄さんと、結婚した三井物産社員との間には、約10日間ではあるが、一緒に暮らした期間があったとのこと。

2. 結果発表紙面(文芸思潮第97号)

3. 賞状

🏅「文芸思潮」エッセイ賞で優秀賞 賞状

4. 審査員選評ほか

 「文芸思潮」エッセイ賞で優秀賞をいただいた。苦節八年であった。作品は、400字詰原稿用紙換算(20字×20行)で10枚。ハイレベルな作品が集まる文学賞だ。以下に先生方の選評を筆写した。なお、上の掲載原稿は、文学賞の募集要項に沿った40字×30行となっている。
 編集長の五十嵐勉先生は、東南アジアに長期間滞在しジャーナリストとしての研鑽も積まれている。リーダーシップに富み、女性ファンも多い作家である。
 都筑先生は、文芸思潮の先生方の中では最も若く、40代ではなかろうか。純文学のみならず、放送作家としても活躍されているようだ。ハッキリとした物言いが、僕には心地よい。

 2025.10.4 
 正倉 一文

【先生方選評】

 「父とすいとん」の正倉一文氏は珍しい題材を父親の好きだったすいとんを通して見事に造形した。すいとんを自身の手でこだわり作って味わうその嗜好のなかに、太平洋戦争空襲下の学生時代の父親の苦学の思い出が滲んでいると同時に、親切に世話をしてくれたアパートの大家の娘への愛惜が潜んでいる。そしてそれと同時に、その親切で純朴な年上の女性が太宰治に愛を寄せ心中した事実が描かれて、驚嘆の展開を見せる。私は有名な人物、有名な事件に依存する手法を好まないが、これは山崎富江やまざきとみえという女性の別な日常的側面を筆者の父親の恋心のなかに捉えることによって、すいとんにこだわる父親との繋がりのうちにその存在を鮮やかにしている。危うい側面を持ちながらもしっかり描写して、技量を上げたことが確認された。

 五十嵐 勉(文芸思潮 編集長)

【先生方選評】

 惜しくも優秀賞となったが、「眉村ゼミの事」(三刀月ユキ)と「父とすいとん」(正倉一文)の2作にも高得点を入れた。眉村ゼミはSF作家の眉村卓の追悼文であり、青春群像劇にもなっていて、読み物としても高水準だった。また、商業作家は時代に消費され、死後、忘却され易い。著名な人物であっても風化を食い止めるためには、指導者としての横顔があったことを誰かが書きとめておくべきだろう。
 「父とすいとん」は推理小説めいた構成のエッセイだ。市井の人のように語られていた人物が、実は純文学界隈では名の知れた「有名人」だと分かる。世には出ていない記録だろうから、今後、作家研究における貴重な史料にもなりうるだろう。しかし、上記2作品は「著名人の知名度」に頼る側面があり、そこに足を引っ張られた。

(中略)

 さて、「枕草子」や「徒然草」のような古典随筆が存在し続けていたとはいえ、かつては「軽い読み物」としての印象しかなかった文芸ジャンル、エッセイ。しかし、この賞と共に広く成長し、深く成熟している。落選も当選も、投稿者には悲喜交交ひきこもごもあったろうが、何百、何千という応募作は、一作たりとも無駄にはなっていないだろう。
 何を書いてもいい、浅くても深くてもいい、だけど生半可な散文の位置にいつまでも甘んじてはいない。エッセイという濁流は荒れ狂い、大河となってどこまで流れてゆくか。これからも一観測者として、先の先まで見届けてゆきたい。

 都筑 隆広(文芸思潮 審査員)

5. 文芸思潮第97号表紙

文芸思潮第97号 表紙

6.作者紹介ページ(文芸思潮第97号)

文芸思潮第97号 受賞作末尾に掲載されたプロフィールと受賞の言葉