日本エア・リキード残酷物語
日本エア・リキード(当時・テイサン)という会社に転職したのは30代前半の頃だった。最初の勤務地は、本社分室、通称「アネックス」と呼ばれ、江東区のウォーターフロントにあった。同じフロアーの別部署に、林田という男がいた。彼は中途採用の同期で、年齢も近かった。
1年ほどが過ぎた頃、転勤の内示が舞い込んだ。異動先は、虎ノ門の本社ビル内に急遽設立されたトレーディング会社である。従業員は10名にも満たず、主に産業ガス関連の中古機器を売買する業務を担っていた。日本エア・リキードは産業ガス(高圧ガス)のメーカーであり、その周辺機器の流通を目的とした子会社だった。
この会社には、重役になりそこねた部長級の2人が、それぞれ社長、専務として収まっていた。つまり、彼らの「勇退の花道」として用意された会社だったのだ。僕は、さしずめその舞台の独楽である。映画スタジオの通行人のようなポジションだった。
しばらくすると、その「花道」で残業していた僕のもとに、人事本部長(理事)の米本と、彼の部下である村丘という若い男が訪ねてきた。「これから銀座に飲みに行こう」というのである。結局3、4軒ほどはしごした。
僕のような下っ端を、理事クラスの人間が飲食に誘うはずがない。それには訳があった。実は、米本は林田の義父である。つまり林田は米本の娘と結婚していた。 当初、子会社への出向話はその林田に白羽の矢が立っていた。それを米本が自らの采配で捻じ伏せた。僕はその事実を、アネックスの同じフロアーの女子社員から耳打ちされ知っていた。
銀座の店では僕はひとことも発しなかった。ただ黙々と水割りを飲んでいた。何をいっても取引となるからだ。斜め向かいに腰かけていた米本は、「分かってくれるかっ……」とひとりごちていた。こちらの無言を了承と受け取ったのだろうか。
一方、僕もまた、当時日本エア・リキードの社長を務めていた池下のコネで入社していた。池下治人は京大(経済)の出身で、池下とは旧制高等学校・寮歌祭※1の仲間で辻村という人物を介して紹介された。
僕は北大(経済)の出身だが、一方、林田は高野山大学の卒業生である。弘法大師も、こんな話を聞けば眉をひそめたかもしれない。———この世は善悪混淆、ままあることさ、といった具合だったのだろうか。 あれから30年以上が経ったが、思い出すたびに、最悪な気持ちにさせられる。
その池下だが、僕がトレーディング会社に籍を置いていた時、2度ほど事務所を訪ねて来たことがある。社長の赤岩に何か話がある風を装っていた。
1度目は、「なんとか身の立つようにしてやらなくちゃな——」と僕の背後に立って小声でいった。2度目は、「こりゃダメだっ」とやはり僕の後ろでひとりごちた。池下は「(挨拶もできない人間じゃ見込みないな……)」とでも思ったのかもしれない。僕は僕で皆の面前で池下に挨拶することを慎んだつもりだった。自分が特別扱いであることを暴露するようなものだと思ったからである。
30歳を境にメンタルの調子を崩したことがあり、その後の生活では苦労することも多かった。会社では、昇進も昇給も考慮されたことはなかった。
ただ、仕事だけは人並み以上にこなしていた。42歳まで会社員を続けたが、それでも手取り年収は400万円にやっと届く程度。勤務先は東証一部上場の産業ガス製造業である。
もし40歳で課長になっていれば、年収は800〜1000万円に達していたはずだ。だが、僕は平社員に毛が生えた程度の等級で、そんな金額には到底届かなかった。
「給料が安い」と上司の猿渡に泣き言をいったことがある。返ってきた言葉は「そんなに金が欲しいか?!」だった。正論だ。昭和世代の僕には、その正論に強く反発することができなかった。
入社面接の時、人事担当者から給料の金額については話を聞いていた。前職であるSMCより安いことは分かっていたが、入社後それなりに昇給するものと思っていた。だが、その考えが甘かった。
江東区の本社分室の時の上司は、この会社は中途採用に対して生え抜きより手厚い場合があると教えてくれた。例えば30代後半で英語が出来、課長で採用の場合、年収1000万円という場合もあったそうである。やはり何事も初めが肝心のようだ。僕は自分に不利な情報ばかりを愚直に申告※2してしまっていた。
筑波の工場へ転勤になってからは、やる気をなくした担当者が放棄した業務の尻拭いをやらされた。お陰で休日のサービス出勤も余儀なくされた。浦沢は高校卒で僕より5、6歳年上だったが、住宅手当も含むと、年間700万円の給料をもらっていた。その浦沢からよくいわれた。「あんたは本当に損な役回りやね」浦沢は九州出身である。仕事にはチャランポランだったが、人のいいところがあった。
工場の総務にクレームをいうと「お前は独身だからいいじゃないか」という言葉が返ってきた。賃金というものは労働という成果物の対価として支払われるものではないのか。
この件に関しては、退職後、直属の上司だった猿渡から手紙をもらっている。そこには、「あなたは並みの社員では及ばないような多忙な仕事に耐え、成果も上げていたと思っています」としたためられていた。他に、「今、私は、定年後の再雇用という身分で、退職前と同じ筑波工場に勤務していますが、直属の上司にあたる現在の課長のまったく誠意のない態度にへきえきとしています」とも綴られていた。猿渡は退職時、部次長だった。最後に、「あの会社はろくなもんじゃありませんね」と締めくくられていた。これは、僕に対する遠回しの慰めであるとその手紙を一読して思った。
最終的に僕が得たものは、工場での過酷な現場労働による「慢性腰痛」と「鼠径ヘルニア」。そして、その後の15年間に及ぶトラウマとの闘いであった。退職した42歳から57歳までの人生を僕は失ってしまった。
【補足】
※1……旧制高等学校・寮歌祭というのは、戦前の旧制高等学校の学生が、年1度、一堂に会して、皆で、寮歌を歌い、時代を懐かしみ、旧交を温め合う催し物(正式名称:日本寮歌祭)。以前は毎年、テレビ中継も行われていた。旧帝大や旧官立だけでなく私立にも旧制高等学校は存在した。例をあげれば、東京では、成城や成蹊、武蔵、学習院など。池下は、京都大学の卒業であったが、辻村は、東大を中退し名古屋大学の卒業である(戦前・戦中だからいろいろあったのだろう)。池下と辻村は、その寮歌祭仲間であった。引いては、池下と辻村は、「学士会」(旧帝大同窓会)の会員だったということである。かくいう僕も、北大卒ということで、その学士会の末席を汚している。ようするに今風にいえば、自分でいうのもおかしいが、3者の関係は、「難関国立大つながり」ということになる。
なお、学士会は現存する組織である。すぐ近くには如水会館(一橋大学同窓会)や共立講堂(共立女子大学)がある。
戦前の学制は、以下の通り。尋常小学校6年(12歳)→旧制中学校5年(17歳)→旧制高等学校3年(20歳)→大学3年(23歳)。なお、旧帝大でも旧制高等学校があったのは、東大・東北大・名古屋大・京大。一方、北大・阪大・九大の場合は予科といった。修業年限は旧制高校と同じ3年だった。
※2……僕は、例えば、「1浪・他大学1年・1留年」と都合3年の回り道をしている。つまり現年齢から推定されるより少なくとも3年は社会人歴が短い。人事面接でそのことをとうとうと語った。会社員の給料は社歴に応じた「基本給」に拠るのだから、こんなこと敢えていう必要もないのだ。会社によっては自然年齢を単純に社歴に換算して基本給としてくれる場合もあるのだから。そして社歴によっては、平社員ではなく役付きとなることもあり、給料に大きな開きが出来る場合もあるわけである。例えば、僕が当時勤務した製鉄会社では、係長手当5万円/月、課長手当10万円/月だった。給料はボーナスも含め当時は17か月というのが基本である。つまり課長となるとそれだけで年収が170万円上乗せとなる。課長になると管理職なので残業手当がなくなるが、他に様々な手当があったと思う。金額以外では、例えば、デスクが両袖の大型になり、椅子にはひじ掛けが付く。
こんな経験をしても今もって僕は愚直である。
落馬文学 — ある昭和人の転落と再生
(凡題:けしからん会社シリーズ)
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谷町の言葉:
「ここまでくれば、あとはもう、まくりさすしかない!」
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第1部 社会的落馬(会社)
収録作:
◆01. 「日本エア・リキード残酷物語」
→ 身内びいきによる左遷、低賃金と過酷な労働による実質労災
第2部 経済的落馬(収入)
収録作:
◆02. 「自分の金ぐらい自分で稼げ、馬鹿者めが!」
→ もはやこの会社で金を稼ぐことは望めない
第3部 精神的落馬(自尊心)
収録作:
◆03. 「作家脳」
→ 筑波工場での副社長の囁き、助け舟の提案
第4部 肉体的落馬(身体)
収録作:
◆04. 「けしからん会社」
→ けしからん! 左遷、低賃金、実質労災の揃い踏み
第5部 編集後記
収録作:
◆05. 「沈黙の中に置き去りにしてきたものをようやく言葉に」
※シリーズ作品が語る内容は、すでに法的時効を迎えている。しかし、長年僕の心の奥底に沈んでいた、歓迎されざる経験であり、僕自身のトラウマ軽減のためにも、あえてここに公開しておく。


