点と線のご縁~佐藤愛子先生の訃報に接して~

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 二〇二六年の年が明けてから、さまざまな出来事があった。
 とりわけ驚いたのは、佐藤愛子先生の訃報だった。「巨星堕つ」である。
 先生の訃報に接したとき、僕の記憶は自然と昔へと遡っていた。
 高校時代の担任の坂下先生は、授業中にしばしばこう言っていた。
「君たち、佐藤愛子って知ってるか?」
「有名な女流作家だ」
「先生はなあ、彼女と同じ町内に住んでいるんだぞ!」
 坂下先生は、下町風情の残る世田谷区太子堂の住人だった。
 僕が佐藤先生を初めて意識したのは、中学時代に遠藤周作のエッセイを読んだときだった。遠藤周作は、悪友として北杜夫や佐藤先生の名をよく挙げていた。
 だから「(佐藤愛子と)同じ町内に住んでいる」という坂下先生の言葉は、妙に僕の胸に刺さった。
 高校に入学すると、非定型発達者の特性なのか落ち着きがなく、読書も得意ではなかった。それでも「本を読むなら若いうち」と心に決め、受験勉強そっちのけで新潮文庫を読み漁った。大学二年までに、五段のスチール本箱一台半、文庫本にして三七五冊の小説を読破していた。これが僕の一生の文学財産となった。
 大学では北大の経済学部に籍を置いたが、文学部の庄司という同級生と親しくしていた。彼は千葉県勝浦市で捕鯨を家業とする網元の子息だった。後年、六十歳を過ぎてから、彼が佐藤先生の親戚であることを本人の口から聞き、驚いた。北大時代にもそのことを聞かされていたらしいのだが、僕の記憶からは抜け落ちていた。
 札幌の学生時代、質屋で買った十四型の白黒テレビで、佐藤先生が地元局の番組にご意見番として出演している姿をよく見かけた。自転車で街を走り回っていたある日、札幌グランドホテルの脇道で佐藤先生とすれ違ったことがある。そこには市営地下鉄の出入り口があった。先生の強面こわもて気圧けおされた僕は、口をきゅっと結んで通り過ぎたあの日のことを、鮮明に覚えている。
 還暦を目前にして随筆春秋に入会してから知ったのだが、あのホテルは先生の札幌での定宿だった。
 北海道は石炭と林業で発展した土地柄で、三井財閥との縁も深い。札幌市中心街に建つ「札幌グランドホテル」も三井系で、昭和時代の札幌を代表する一流ホテルである。
 社会に出て製鉄会社に入社したのだが、三十歳を目前に退職し、岐阜県恵那郡串原村にある農業塾に入塾していた。弱った心を癒し、人間とは何かを学び直すためだった。週に一度、恵那市の市場へワゴン車で買い出しに行くのだが、そこには佐藤先生の長男が院長を務める病院があり、地元では佐藤先生の名はよく知られていた。
 塾長であった伊藤先生も佐藤先生をよく知っていたようだ。後年、伊藤先生ご自身も随筆春秋の同人であったと聞いている。
 こうして振り返ってみると、僕は佐藤先生とは無縁ではなかったのかもしれない。
 中学で遠藤周作を通じて佐藤先生の名を知り、高校では担任が佐藤先生と同じ町内に暮らすと聞かされた。北大では親しい友人が佐藤先生の親戚で、僕自身も札幌の街角で佐藤先生を直接見かけている。社会に出て挫折した時に縁を持った岐阜県恵那市には、佐藤先生の長男が医師として病院を開いていた。
 そして後年、僕はその佐藤先生が指導者を務める随筆春秋に入会した。
 佐藤先生は七十歳を迎えようとする頃に随筆春秋とご縁を持ったようだ。つまり、随筆春秋とのご縁は晩年になってからのものだが、それでも三十三年という長さになる。
 佐藤先生とは実際には言葉を交す機会には恵まれなかった。だから僕は、札幌の街角でご尊顔を拝しただけの淡いご縁だと考えていた。
 しかし、記憶の点と点をつないでみると、そこには一本の線が浮かび上がる。人生の節目節目に佐藤先生の姿があり、マスコミが訃報を流した五月十五日(二〇二六年)には、先生の著作一覧(Wikipedia内)を僕は自分の手でまとめ直していた。
 ご縁とは不思議なものだとつくづく感じた。合掌。