父の秘密

ブログ・文学世界ドットコム

父の秘密

 昭和24年に父は電気通信省(後の逓信省、旧日本電信電話公社、現NTT)に入省した。戦後の混乱期において、通信という国家基盤の再構築の構図がまだ明確に描かれていなかった時代に、父は若手職員としてその一旦を担い始めていた。
 昭和32年に母と結婚し、翌年に僕が生まれたが、入省からその結婚に至るまでの約8年間の、父の具体的な職務内容については詳しく知らされてはいない。
 その間父は四国に赴任していた時期もあり、当時の体験談は頻繁に聞かされた。
 国鉄バスで山道を揺られたことや、その海側が断崖絶壁で反対側には山肌が迫っていたこと、夏にはバスの窓を全開にした際に蛇が飛び込んできたことなど、父はまるで昨日の出来事のように生き生きと語った。
 しかし、クウェートに関する話だけは全く違った。四国の時のように風景の断片は一切なく、空の色や暑さ、食事や移動手段など、詳細が語られることはなかった。「行ったことがある」と語るのみで、それ以上は口にしようとしなかった。
 昭和39年に僕が小学生になる頃までは、日本人が自由に海外旅行できる時代ではなかった。一般国民がパスポートを取得するのは簡単なことではなかった。そんな時代に、父は中東のクウェートへ赴いたのである。恐らく日本国の特命を受けて。
 昭和24年に電気通信省に入省してから昭和32年の結婚までのどこかで、独身の父は日本を離れたはずである。短期の出張ではなく、油田という国家規模のプロジェクトに絡む通信事業に関わるなら、数か月あるいは年単位の滞在も十分に考えられる。
 父が若い頃に所属していた部署は僕には分からないが、当時日比谷にあった電々公社の本社ビルには、東京芝浦電気(現・東芝)とアラビア石油が同じ建物に入居していた。父も独身時代に本社に勤務していた時期があった。
 東芝の背後には当時プラント業界で秀でていた千代田化工が控えており、油田といえば千代田化工(三菱系プラント建設企業)が関与しないはずがなかった。
 プラント建設を担当するのが千代田化工、電気機器製造と制御を担うのが東京芝浦電気、油田の採掘権や利権を管理するのがアラビア石油である。千代田化工は別としても、3社が同じ建物にあったことは、今振り返ってみると非常に象徴的であった、といえる。
 アラビア石油は通称アラ石と呼ばれ、日本がクウェートと特別な関係を築き、油田の権利を得た「国策企業」であった。
 千代田化工がプラントを建設し、東芝が電気機器と制御技術を提供し、最後に必要となるのが通信手段である。通信は、海底ケーブルを敷設し専用回線を敷いてクウェートと日本とを結ぶ。後に日本の商社が海外との通信に多用した「テレックス」の原型である。
 油田はそのままでは利益を産むことはない。プラントで安定した原油産出を行ない、その上、そのプラントの制御・管理や諸々の通信もしっかりとする。そんな計画的な運営を行なってこそ初めて利益を産み出すものだ。
 その通信を担っていたのが当時の電々公社である。
 父がクウェートへ赴いた理由は、父の死後に、僕がようやく、線として描き始めたものだ。父は点だけを残して2011年春に逝き、息子がそれを線として拾うのをあの世で待っていたのかもしれない。
 もし、隠された遺書に、父が国王から譲り受けた油田を僕に相続させると記されているとしたら……そんな荒唐無稽な発想が頭を過る。僕が中東の油田所有者となったら、親しい同級生には牛丼並盛くらいはご馳走するつもりだ。
 しかし、父が真に残したかったのは秘密でも油田でもなく、戦後の日本が世界と繋がろうとした最前線に父も確かに立っていたという、静かな誇りであったと僕は考えている。