ミサワホームO型と僕

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ミサワホームO型と僕

 拙宅は、ミサワホーム謹製です。ミサワホームは、三澤千代治(存命)という創業者の名前を冠している会社です。
 家の特長は、「木質系パネル工法」という、べニア(厚さ5.5mm以上)でサンドした、密閉型(内部には断熱材)のパネル(いってみれば箱:べニアの間隔8cm以上)により、これを「構造躯体」として、小規模な個人住宅を建てるというものです。
 現在の日本で、この工法を採用しているのは、ミサワホームとスウェーデンハウスしかありません。木質系パネル工法が開発された昭和時代には、柱もなく、べニアだけで家を建てるのか、ずいぶん安普請だなぁ、と揶揄されたものでした。
 一方、TBSの若手プロデューサー・堀川とんこう(当時40歳)の企画した『岸辺のアルバム』というドラマで、このミサワホームの建てた、木質系パネル工法の木賃アパートが、氾濫した多摩川の激流を、破壊されることなく、建った時の形のまま、流されていく光景が、毎回、ドラマの冒頭で、ジャニス・イアンの歌と共に放映されました。
「なんだあの家は!?」
 たちまち巷の噂になり、発売したばかりだった「ミサワホームオー型」という住宅が、日本全国で、結局、5万棟も売れるという快挙を成し遂げました(発売期間は15年ほどか)。これは、「サラリーマンの年収でも買える家」というコンセプトで開発された住宅でした。
 『岸辺のアルバム』は当時のドラマではご法度とされていた不倫なども盛り込まれた斬新なものでした。1977年6月24日から9月30日まで放送されました。僕は高校を卒業し、4月から浪人生活を送っていた時でした。主人公のひとりである国広富之もまだ若く、僕と同じ浪人生の役でした。その姉には中田喜子、母親が八千草薫、父親が杉浦直樹という配役です。
 家族は狛江の戸建てに暮らしていて、それぞれが問題を抱えていました。台風による多摩川の堤防の決壊により家族の住宅が流されそうとする刹那、危険を冒して家に戻り、家族でアルバム(写真帳)を持ち出すシーンが印象に残っています。その直後に住宅は傾き濁流に呑まれます。
 その後、一同に会した家族は、新規まき直しで、新しい生活を家族一緒に紡いでいこう、と明るい笑顔で前を向く、というラストを迎えます。
 その頃、僕は、千葉大学工学部の建築学科を受験し、不合格になったところでした。建築には子供の頃から関心がありました。そんな僕はこの『岸辺のアルバム』を見て、父親に、もし家を建て替える予定があるのなら、ぜひ、ミサワホームO型の家を建ててくれと、何度も頼んだものでした。
 結局、僕が29歳の時に、我家は東京都練馬区から神奈川県川崎市に引っ越すことになり、父がこのO型の家を建てました。それが今僕の住んでいる家です。
 1986年秋に竣工しました。1986年といえば、日本ではちょうど、バブル景気の勃発した年に当たります。つまり我家は築40年(2026年現在)ということになります。
 O型の家は、日本で初めてLDKという概念を提供した家という定説があります。つまり、リビングと食堂と台所が繋がってひとつの空間になっている、という間取りです。今ではごくありふれたものです。それ以前は、日本の一般家屋では、少なくとも、リビング(応接間)とダイニングキッチン(食堂と台所が一体となった間取り)は、別々の間取りになっていました。
 リフォームで今時の若い40代くらいの職人さんが我家を訪れると、
「僕らの年代だったら、築40年といったら、迷わず建て替えを選ぶな!」
 といわれてしまいます。しかし、建築物はその人の人生と共にあった存在です。いわばその人の個人情報の塊のような存在ともいえます。もっとも住居には頓着しない生き方をする友人もたくさん知っていますが……。
 僕は、このO型という家を今後も守っていきたいと思っています。

※堀川とんこうの実母・堀川とし(実業家)が、随筆春秋の創設者。