いっしょうもの

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 まず第一に人のことをリスペクトしなさい——とよくアドバイスされた。
 学校時代の僕の歴史は、教員からの排除の歴史だった。高校時代の担任からは決定的に嫌われていた。僕の方ではむしろ親しみを感じていたが、担任には僕のそういう気持ちはまったくといっていいほど伝わっていなかった。
 先生や学校をリスペクトしていなかった僕は、受験勉強はしたが、学校の中間テスト向けの勉強などには、ほとんど手を付けなかった。現役で千葉大の建築学科を受験する時には、内申書を依頼すると、担任から、「受験など10年早い!」と真顔で駄目出しを食らった。
 そもそも僕はたとえ相手が総理大臣であっても、普通の人のように「それはそれは」と下手したてに出ようとする感覚が本来的に欠如している。
 僕の父親は電々公社の職員だった。現NTTである。当時は三公社五現業のいつとされ、国家公務員に準ずる立場だった。ありていにいえば、電々の幹部職員たちは中央省庁の高級官僚と同等の意識を持っていた。
 僕は中野富士見町(東京都中野区)の電々官舎に両親と暮らしていた。鉄筋コンクリート造4階建てのアパートが4棟、旧有島邸の跡地に建っていた。
 築山つきやまや人工池、小さな橋や各所の木立などが往時の様子を留めていた。高い万年塀まんねんべいが敷地の周囲をぐるりと囲い、都会の喧騒からは隔絶された一種独特の環境だった。
 今でいえば、例えば、トヨタ自動車会長の豊田章男のような人物が、時々、拙宅を訪れた。この人たちは公共の交通機関は使わず、もれなくショーファードリブンの黒塗りでやって来る。
 車は万年塀の外に専属運転手とともに待機している。人物だけが徒歩で我家への急な階段を3階まで登り、留守宅を守る母と僕に、深々と頭を下げていく。
 こんなこと説明するのも失礼かもしれないが一応書いておく。昭和30~40年代の当時は、日本では、太平洋戦争後(終戦は昭和20年)の復興期(高度経済成長期ともいう)にあった。欧米の仲間入りを果たすべく、国内では中央省庁(通産省や大蔵省など)や電々公社が、民間企業の音頭取りをしていた。トヨタ自動車のような大企業の経営者であっても、通産省の課長などには、頭が上がらなかった。そういう時代である。俳優の佐藤浩一がこの時代の官僚を演じている(『官僚たちの夏』TBSドラマ、2009年)。
 そして、間違っても、我家では、絶対に、買えないような高価な贈り物を置いていく。それがこの方々の、ある種の、誠意のあらわし方なのだろうと僕は子供心に思っていた。
 余談だが、拙宅は45~55㎡ほどのいわゆる2DKの住まいであった。北側の4畳半和室の押し入れには、常に、高級酒がいっぱいに詰まっていた。僕は大人になるまで、お酒は、自分で買うものであるということを知らなかった。
 父親が民間企業に勤めるという西山君(高校同級生)の家によく遊びに行ったが、彼の父親は当時の協和発酵の幹部社員だった。給料の高い一流企業である。それでも夜中になって西山君と飲む時は、ふたりで近くの酒屋までウイスキーを買いに赴いた。購入するのは、いつも決まって、ニッカのBlack50だった。これが僕の酒屋デビューである。
 子供時代の官舎での経験が、僕を「偉い人不感症」にしたのではないだろうか。父親は、電々公社では、最終的には中間幹部職だった。
 いろいろな意味で、子供時代は重要だ。身に付いた感覚は、いい悪いは別として、いっしょうものになってしまう。

(※中間管理職とはまた別。幹部とは、一般的には、部長級以上を指す言葉ではと思う)