海上自衛隊の思い出
昔、海上自衛隊の横須賀基地に出入りしていたことがあります。中でも田浦地区の潜水医学実験隊には何度も赴きました。小生の仕事は営業でした。我々は産業ガス、高圧ガスを製造する会社でしたが、実験隊へは潜水ガスを納入していました。酸素とヘリウム、あるいは酸素とヘリウムと水素の混合ガスを高圧ガスのボンベに詰めて搬入します。各成分の割合は使用条件により異なります。その指定は厳密なものでした。
潜水医学というぐらいですから、ドクターも関与しているわけで、その関係で所沢市にある防衛医科大学病院にも何度か伺ったことがありました。ちなみに防衛医科大学は、正式には防衛医科大学校といいます。国立大学のように文部科学省の所管ではなく、あくまでも防衛省の学校です。授業料は無料です。しかも、給料がもらえます。制服も支給されます。学生は究極の親孝行です。卒業後の条件として、9年間は自衛隊で働かなければなりません。
話は戻りますが、横須賀の海上自衛隊構内に入ると、大勢の人が、通常の執務時間内に、スポーツをしています。1人で構内をマラソンしたり、若い女性と男性上司が組んで硬式テニスの打ち合いをしたり、それぞれが思い思いのスタイルで汗を流しているのです。これはレクリエーションではありません。事務職に就く隊員たちの義務なのだそうです。1日2時間と定められています。つまり仕事です。事務職といえども、有事に備えて、体を作っておくということなのだろうと思います。隊員たちの退職年齢は、部署により若干の違いはありましたが、50 代後半という決まりでした。民間のように60歳ではないのですね。
金曜日に横須賀の海上自衛隊に行くと、係留されている潜水艦の艦上からこちらに向かって手招きをする人がいます。いわれるままにそちらへ向かうと、潜水艦の狭いハッチを通って、7~8人がやっと食事できるダイニング・スペースに案内されました。そこでカレーライスをご馳走になりました。付け合わせのフルーツやヨーグルトなども一緒に、四角いワンプレートの皿に盛られていました。
その隊員さんは、もう中年ですが随分と立派な体格をしていました。よく見ると顔には深い傷があります。狭い艦内で負傷した痕跡なのかもしれません。僕らは、潜水艦だけではなく、艦船の甲板でも仕事をしました。そんなとき不意に汽笛が鳴ることがありました。テストでもしていたのでしょうか。こんな大きな音の出るスチーム管の傍にいたら魂が飛び出してしまいそうです。海上自衛隊という、仕事の厳しさが思われます。
2020.12.06
※日本エア・リキード(当時テイサン)で1993年5月から勤務するようになった。1989年はマルタ会談(米ブッシュ大統領と露ゴルバチョフ書記長が調印)で(一応)東西冷戦が終結となり、1991年にはソ連が崩壊する。これを受けてアメリカでは、戦略上の重要物資として囲い込んでいた液体ヘリウムを世界の市場に向けて開放した。テイサンでの僕の主な仕事は、その液体ヘリウムを売ることだった。日本では、1993年は、医療機関でのMRIの導入が本格化した黎明期である。MRIは、超電導の理論を用いた、人体の断層撮影装置である。身体の入る丸いトンネルの周囲には超電導コイルが備わっており、その冷却材として液体ヘリウムが必要不可欠であった。その直属の上司が、潜水医学の仕事と関わりを持ち、海上自衛隊とコネクションを持っていた。僕はそれに随伴することも多かった。

