帝王酸素・残酷物語 —花道の独楽と失われた15年—

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CG(花道の独楽):小倉 一純

帝王酸素・残酷物語 —花道の独楽と失われた15年—

 帝王酸素(現・日本エア・シリンダー)という会社に転職したのは、30代前半の頃だった。最初の勤務地は、本社分室、通称「アネックス」と呼ばれる江東区のウォーターフロントにあった。同じフロアーの別部署に、林田という男がいた。彼は中途採用の同期で、年齢も近かった。
 1年ほどが過ぎた頃、転勤の内示が舞い込んだ。異動先は、虎ノ門の本社ビル内に急遽設立されたトレーディング会社である。従業員は10名にも満たず、主に産業ガス関連の中古機器を売買する業務を担っていた。帝王酸素は産業ガスのメーカーであり、その周辺機器の流通を目的とした子会社だった。
 この会社には、重役になり損ねた部長級の2人が、それぞれ社長、専務として収まっていた。つまり、彼らの「花道」として用意された会社だったのだ。僕は、さしずめその舞台の独楽である。映画スタジオの通行人のようなポジションだった。
 しばらくすると、その「花道」で残業していた僕のもとに、人事本部長(理事)の米本と、彼の部下である村丘という若い男が訪ねてきた。「これから銀座に飲みに行こう」というのである。3、4軒ほど、はしごをした。
 僕のような下っ端を、理事クラスの人間が飲食に誘うはずがない。それには訳があった。実は、米本は林田の義父である。つまり林田は米本の娘と結婚していた。 当初、子会社への転勤話はその林田に白羽の矢が立っていた。それを米本が自らの采配で捻じ伏せた。僕はその事実を、アネックスの同じフロアーの女子社員から耳打ちされ知っていた。
 一方、僕もまた、当時帝王酸素の社長を務めていた池下のコネで入社していた。池下君人は京大経済学部の出身で、彼とは寮歌祭仲間の辻村という人物を介して紹介された。 僕は北大経済の出身だが、林田は高野山大学の卒業生である。空海はこんなことを許すはずはない。
 ———この世は玉石混交、ままあることさ、といった具合だったのだろうか。 あれから30年以上が経ったが、思い出すたびに、最悪な気持ちにさせられる。
 30歳を境にメンタルの調子を崩したことがあり、その後の生活では苦労することも多かった。会社では、結局、昇進も昇給も考慮されたことはなかった。
 ただ、仕事だけは人並み以上にこなしていた。42歳まで会社員を続けたが、それでも手取り年収は400万円にやっと届く程度。勤務先は東証一部上場の産業ガス製造業である。
 もし40歳で課長になっていれば、年収は800万〜1000万円に達していたはずだ。だが、僕は平社員に毛が生えた程度の等級で、そんな金額には到底届かなかった。
 「給料が安い」と上司の猿渡に泣き言をいったことがある。返ってきた言葉は「そんなに金が欲しいか?!」だった。正論だ。昭和世代の僕には、その正論に強く反発することができなかった。

 筑波の工場へ転勤になってからは、やる気をなくした担当者が放棄した業務の尻拭いをやらされた。お陰で休日のサービス出勤も余儀なくされた。浦沢は高校卒で僕より5、6歳年上だったが、住宅手当も含むと、年間700万円近い給料をもらっていた。その浦沢からよくいわれた。「小倉さんは本当に損な役回りやね」浦沢は九州出身である。仕事にはチャランポランだったが、人のいいところがあった。
 工場の総務にクレームをいうと「お前は独身だからいいじゃないか」という言葉が返ってきた。賃金というものは労働という成果物の対価として支払われるものではないのか。
 最終的に得たものは、工場での過酷な現場労働による「慢性腰痛」と「鼠径ヘルニア」。そして、その後の15年間に及ぶトラウマとの闘いであった。僕は、退職した42歳から、57歳までの人生を失った。

 小倉 一純

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