うどん屋と民主商工会
僕には過去の共産党に対してざらつく思い出があります。
拙宅の近所にも共産党の党員さんが何人かいて、選挙シーズンになるとポスターを貼らせてくれと頼みに来たことがありました。特に害はないと思いOKしましたが、選挙が終わってもそれは回収されませんでした。
文句をいってやりました。喧嘩になったので、僕が共産党を嫌いなことを明かしました。彼らは不愉快な気持ちを隠さず「どこにでも必ずこういう奴がいるんだよなッ」と捨て台詞を残し帰っていきました。
僕が子供の頃、父は日本電信電話公社に勤めていました。その父の所属する電話局の管内に、あるうどん屋がありました。 そのうどん屋の電話が一時期、不通になったのです。つまり電話がかかって来なくなったということです。
当時は電話を受けて「出前」をするというのがどこの飲食店でも定番でしたから(今でいう「デリバリー」)、その間は、出前を受けられなかったことになります。
うどん屋のご主人は電々公社に補償を求めようと思いましたが、当時の電々は親方日の丸の役所でした。交渉は簡単ではなさそうです。そこで、共産党に助けを求めたのだと思います。その共産党の下部組織に、「民主商工会」というのがありました。これがいわゆる「圧力団体」で、深夜でも早朝でも我家に電話がかかってきました。
「あんた、小倉さん。うどん屋の件、分かってるんだろうな。いいから、今すぐ出て来い!」
父は仕事で不在のことも多かったですから、僕がよく彼らからの電話を父に取り次ぎました。男の仕事というのは命懸けなのだなと僕はその時思いました。
お陰で、このことがトラウマになりました。大人になってから1度、共産党本部にこの件に関して文句をいってやったことがありました。が、一笑に付されてしまいました。
「あんたね、共産党がそんなことをしていたら、今みたいな大政党にはならなかったでしょ」
うどん屋の件ですが、父の働きかけで電々公社の上層部から当時の共産党幹部に話が行き、和解金が支払われることになり事が収まったと父から後日談を聞かされました。
共産党は労働者など弱者の視点から政治を考える党です。高齢の市民が党員となり、機関紙の配布などを請け負い生き甲斐のある人生を送っているという美談も時々目にします。
ただ、僕の記憶には、あの電話の音と怒鳴り声が、今でも耳に残っています。
昭和44年か45年頃の話です。その後、都立高校に入学し人生初の彼女が出来たのですが、その彼女のクラスが社会科見学で取材先に共産党本部を選びました。担任の奨めだったのでしょうか。とても好待遇だったと感動しているのを目の当たりにし割り切れない気持ちだったのをよく覚えています。
小倉 一純
※日本共産党は1922年に創立され、同年11月に開催されたコミンテルン(共産主義インターナショナル)第4回大会において、正式に「日本支部」として承認されました。
コミンテルンは、ソビエト連邦共産党が主導する国際組織であり、各国の共産党を思想的・組織的に指導する役割を担っていました。したがって、日本共産党は創立当初から、ソ連の強い影響下に置かれた“出先機関”的な性格を持っていたといえます。この事実は隠されているわけではなく、日本共産党の公式サイトにも「戦前はコミンテルンの日本支部として出発した」と明記されています。僕はこうした歴史的事実を正直に記載する姿勢、嫌いではありません。
日本共産党と並ぶ左派政党として、かつて日本の第二党だった日本社会党の存在も忘れてはなりません。社会党は、共産党に比べて与党・自民党に対して忖度する傾向が強かった印象があります。その社会党の象徴的存在として、土井たか子という女史の名を挙げないわけにはいきません。彼女は主義を非常に尊重する人物であり、北朝鮮による拉致被害者問題が国会で取り上げられていた際にも、「共産主義に関わる人々がそんな犯罪行為を成すはずがない」として、拉致の事実を認めようとしませんでした。この姿勢が影響し、拉致問題に対する国の本格的な対応は約15年遅れることになったといわれています。その遅れが、結果として問題解決を致命的に困難にしたと、拉致被害者家族の団体は訴えています。
余談ですが、僕が小学生だった1960年代後半、少年漫画雑誌の巻末に、新潟県の海岸沿いで若い男女のカップルが北朝鮮の工作員にさらわれるという事件が掲載されていた記憶があります。当時は『少年画報』(のちに休刊)、『少年マガジン』『少年サンデー』などの漫画雑誌がすでに創刊されており、僕はそれらをよく、かかりつけの耳鼻咽喉科の待合室で読んでいました。なぜか漫画本編よりも巻末の記事のほうがお目当てで、エジプトのミイラ特集なども記憶に新しいところです。
