常木(つねぎ)

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常木

 母は、増上寺も程近い、東京は芝の生まれである。
 母の父親つまり僕の祖父は、その芝で運送業を営んでいた。祖父は、芝一帯に拠点を構えるヤナセの本店から、アメリカ製のフォード・トラックを調達し、家業に使っていた。
 当時、車はまだ普及しておらず、したがって国産車のラインナップなどもなく、車といえば主に米国車を購入するしかなかった。
 祖父は、明治生まれで気骨のある男子であった。頭もよく、小学生の時には東京市長・尾崎行雄(ゆきお)から成績優秀で賞状を手渡されたほどである。
 実業家の祖父は東京育ちで気前がよく、うなぎを食べに出かけるというと、向こう三軒両隣をみな誘ってはご馳走したのだという。ヤナセではセダン型の米国車も購入し、祖父みずからも車を運転した。

 母はお嬢さん育ちである。長女として家事を手伝う傍ら、三人の弟たちの面倒をよくみたという。そんな中、いよいよ戦火が激しくなると、母たち一家は、栃木県足利(あしかが)市に疎開した。

 足利といえば街の中央を東西に利根川の支流である一級河川の渡良瀬(わたらせ)川が流れている。その上流には足尾銅山があり、昭和四十五年頃までは、足利の水田ではたびたび赤水が発生した。足尾銅山から流れ出る鉱毒が原因だった。その後、昭和四十八年に足尾銅山は閉山となる。
 足利は、足利尊氏(たかうじ)の先祖が開いた街である。街の中央には鑁阿寺(ばんなじ)という寺があり、そこがかつての足利氏の居城である。大日如来(にょらい)を祀っていることから地元では「大日様」と呼ばれる。寺だが、周囲には堀が巡らされている。住職をはじめ関係者の努力で、本堂が「国宝」に指定された。
 また、道路を挟んでその斜め向かいには、足利学校がある。こちらは日本初の大学で、「国指定の史跡」となっており、現在も膨大な数の古文書を所蔵している。
 そんな足利市であるが、観光誘致の目的もあり、現在では「北関東の小京都」という呼び方が市のパンフレットに使われている。

 その足利で祖父は金属加工業を始め、小さな工場でアルミニウム製の鍋などを作るようになった。当時の世相を反映し、会社は有限会社「東亜アルミニウム」と名付けられた。戦時中、日本国内では目下の戦争を「大東亜戦争」と呼んだ。その影響で、当時は社名に「東亜」「大東亜」という言葉を使う会社も多かった。
 それに戦後は物のない時代であった。そんなことから祖父は、庶民が日常生活の中で使う急須(きゅうす)薬罐(やかん)、灰皿、鍋などを作れば売れるという勝算があったのだろうと思う。現に商売は当たり、規模は零細ながら、祖父は地元足利市では、ちょっとした名士となっていた。

 そんな祖父の父親の実家は埼玉県の羽生(はにゅう)市であった。その羽生の、常木(つねぎ)という地区に、「平井」の本家があり、祖父も平井姓を名乗っていた。その羽生市の北側には隣接して利根川が西から東へ流れ、向こう岸には館林(たてばやし)市を挟んで、足利市がある。そういう位置関係である。

 母の昔語りを聞く限り、母のルーツはその常木なのだ。
 ところが今、常木をグーグルマップで調べてみると、まるで「〇〇新田(しんでん)」といった風景で、農家がポツンポツンとしか存在していない。鎮守(ちんじゅ)の森こそ残っているものの、民家もかなり間隔を空けてまばらに建っている。例えば、北海道の広大な牧場の風景を想像してもらえばイメージが近いと思う。

 なぜこんなことになっているのか、考えてみた。
 終戦後、日本には連合国軍としてマッカーサー率いるアメリカ軍が進駐していた。その当時、日本を襲った台風には、アメリカ国内の慣習に従い、アルファベット順で女性の名前が付けられた。カスリーン台風がその一つである。頭文字は「K」。
 この台風が関東を襲った際、まず埼玉県は加須(かぞ)市の堤防が決壊した。その後は北関東だけでなく、東京都葛飾区、江戸川区、荒川区まで水浸しになった。利根川はそれまでも関東一の暴れ川で「坂東(ばんどう)太郎」と呼ばれ、氾濫を起こすことは珍しくなかった。しかしカスリーン台風の時はその規模が桁違いだった。水害に襲われた北関東の住人の記録によれば、牛や馬、蛇までもが濁流に乗って流されてきたという。

 母のルーツである常木も、北に隣接する利根川の濁流に呑まれ、洪水後はまるで新しく干拓された干潟(ひがた)のような状況だったのではないだろうか。
 母は子供の頃、何かのことで、常木にある平井本家に足を運んだことがあったのだという。それは大きな門構えで、敷地内には土蔵も建ち並び、豪農の風格が漂っていた。子供心に母は、「すごい屋敷があるものだ」と思ったのだそうである。
 そんな話を小さな時から聞かされていた僕は、羽生には「平井の里」という、桃源郷(とうげんきょう)のような、理想の田舎が存在するものとばかり思っていた。
 父は、日本電信電話公社(現・NTT)に勤める役人で、僕はその官舎である東京の団地で育った。そんな僕は、「田舎っていいなぁ」と心の片隅でずっと思っていた。ただ、だからといって、僕がみずからその常木に赴くとか、歴史を調べるという情緒はまだ育っていなかった。若い頃の僕は、恋愛や受験、就職といった目の前の課題に追われる日々の中で、母の語る常木の話を聞いても、どこか現実味のない遠い世界のことのように感じていた。

 それが還暦を迎える頃から、ようやく僕にも余裕が生まれ、その桃源郷が今もあるのか否か、調べてみる気になったのである。
 現在ではインターネットも普及し、グーグルマップなどのツールも発達した。お陰で僕は家から一歩も出ずに、その常木の現在の様子を(うかが)い知ることができた。
 常木には、令和の現在では、神社の小さな本殿が再建されているものの、コンビニは一軒も見当たらない。かつての農家は恐らくすべてが利根川の濁流に呑まれ、それを境に、この土地は完全にリセットされてしまっているのだろう。
 農家や民家がポツンポツンと見えるだけで、常木は、僕が子供の頃に思い描いていた桃源郷とはまるで違う姿をしている。静かな農村の趣は残っているものの、心の中で抱いていた理想とは重ならず、どこか違和感を覚えるのである。

 諦めがつかず、さらに調べてみると、常木には、平井という家が今も何軒か、存在している。家屋敷は再建であろう。直接赴いて、一軒ずつ尋ねてみたい衝動に駆られた。だが、そのすぐ後で、そんなことは何の意味もないと思い直した。仮にその中に、旧・平井本家があったとしても、今ではもう縁が切れ、時代という背景も大きく変わってしまっている。
 常木という桃源郷は、現実に足を運んで確かめれば、失われたものの痕跡ばかりが目に付き、幼い頃から抱いてきた理想の姿は壊れてしまうであろう。
 だから、それは、心の中で育て続ける方がよいのだ。——それでいいのだと僕は思うことにした。

 小倉 一純

ストリートビュー(常木)· Google マップ
〒348-0003 埼玉県羽生市