押しかけ女房
ホンダの古いスーパーカブがある。
俺と同じく、年季が入り、寒さに弱くなった。
セルは回らず、
バッテリーもよくない。
だから、毎朝、妻に頼む。
後ろから押してもらうのだ。
ギヤを噛ませて前に進めば、エンジンは目を覚ます。
それが、この老いた機械の、まだ残された起動の作法だ。
昨日、富士が初冠雪した。
丹沢山系の向こう側に白い帽子をかぶった神の山が見える。
空気が澄み、冷え込んでいる。
今朝も、エンジンは沈黙したままだ。
妻が白い息を吐きながら、俺の乗ったカブを押してくる。
毎朝のことだ。
ありがたいと思う。
その気持ちを言葉にするのは少し照れくさい。
「お前は、俺の大切な、押しかけ女房だな」
「……なにそれ、寒いわよ」
「いや、エンジンがかかるのは、お前のおかげだ」
「はいはい。郵便局、遅れるわよ」
小倉 一純



