ずっと小説家になりたかった僕が語る、奈津子の死|第18回「文芸思潮」銀華文学賞(小説)・入選

エッセイと小説の王道

ずっと小説家になりたかった僕が語る、奈津子の死

 中学生の時、遠藤周作のエッセイ集と出会い、純文学の作家というものに憧れを持つようになった。
 もっとも、今考えてみれば、僕は小学生の頃から本には親しみを感じていた。子供向けの偉人伝から始まり、中学生になると早川文庫のSFに夢中になっていた。高校時代は、受験勉強もそっちのけで、武者小路実篤、井上靖をはじめとする純文学の虜になった。それだけが原因ではないが、お陰で二年、浪人をした。

 東京から念願の北海道大学に進学しても、純文学に対する情熱は冷めることはなかった。

 札幌では最初、藻岩山もいわやまふもとに建つ学生寮に入寮した。当時、父親が東京で勤務していた日本電信電話公社(現NTT)の子弟寮である。
 そこで一年半を過ごした後、今度は、市内を流れる一級河川・豊平川の大きな堤防のすぐ下にある、二階建ての木賃アパートに引っ越しをした。新築ではあったが、場所が場所である。昔の話だが、この辺りには水車小屋などもあり、札幌では一番の細民地区であったという。僕が暮らした当時も決して治安がいいとはいえない所であった。
 深夜、不良に絡まれたことも一度や二度ではなかった。暗い夜道を歩いてコンビニに向かっていると、横からいきなり真空飛び膝蹴りをしてくる高校生がいた。
「俺ともめないかいッ!」
 もめる、とは北海道弁で「喧嘩けんかする」という意味である。雪深い路地は、プロレス技をかけるには打ってつけの場所だった。

 大学生になった僕は、酒場通いの面白さを知るようになっていた。酒場といっても、ススキノの一流店などとは程遠い場末のジンギスカン屋である。 
 場所は、最初に住んだ学生寮近くの、住宅街の路地の一画である。そこに、小さな飲食店が二十数軒集まっていた。かつての夕張炭鉱の小規模な飲み屋街を思わせる風情であった。切り盛りするおばちゃんは七十歳を過ぎていて、創価学会の会員だった。池田大作の『人間革命』という著書をもらった。創価学会の創始者である牧口常三郎まきぐちつねさぶろうの母校が目と鼻の先にあった。石狩方面に移転する以前の北海道教育大学札幌分校である。
 飲み屋街が賑わうのは毎晩十一時を過ぎたあたりからである。そんな場末の酒場では、少なからず流血騒ぎも起こった。
 現に、僕の隣席で飲んでいた中年が、何かのきっかけで、そのまた隣の中年に、ビール瓶で頭を殴られるという事件にも遭遇した。若い頃、東京逓信ていしん病院(千代田区飯田橋)で外科の看護師だったというおばちゃんが、大活躍だった。駆けつけた救急隊員にも、その手技を褒められた。

 またある時、地味なコートを羽織った渋い紳士が僕の横に腰かけた。やはりカウンター席である。カウンターはラーメンを置くとスープが左に偏った。正確にいうと、ジンギスカン屋そのものが傾いていたのである。
 おばちゃんから耳打ちされた。隣の紳士は、実はヤクザであるという。だが、恐いもの知らずだった僕は、その紳士に、様々な質問を無遠慮に投げかけた。
 後日、その飲み屋街の路地で、紳士と鉢合わせた。
「この間はおばさんの手前、黙ってたけど」
「アッ、はい」
「あんまりなめたことしてくれるなよなッ!」
「……」
 気がついてみると、僕は雪の中に倒れていた。その晩は、飲み過ぎて大分酔っていた。どうやらボコボコに殴られたらしい。傍らには僕のサイクリング車が倒れていて、チェーンも外れていた。直そうと手を触れたが、簡単な作業のはずが、サッパリ要領がつかめない。頭を強く殴られたせいではないかと思った。

 思い返せば、このたぐいの話はまだほかにもある。当時の僕は、これらすべてを、作家修行の一環だと考えていた。小役人の小倅こせがれで成績のことばかり気にしながら生きてきたから、学生のうちに少しでも異文化に触れておかなければならないなどと、妙な使命感に燃えていたのである。

 そんな僕も還暦を回った。会社員人生は途中で切り上げ、作家修行を本格的に始めて早七、八年が過ぎた。世の中は僕の学生時代から大きく変化し、あんな経験が役に立つとはとても思えない様相を呈している。
 僕の作家修行は、結果的に、ただの蹴られ損、殴られ損であった。
 なんとも愚かな結末である。

 だが、ひとつだけ、これはという思い出が残っている。それは、例のジンギスカン屋で、近くの札幌駐屯地の自衛隊員から、決して明るいとはいえないが、ある打ち明け話を聞かされたことだ。隊員には「明日も必ず来いよ!」と促され、話は二夜に渡った。
 それは、実際に起きた航空機事故の悲しい物語だった。
 隊員からカウンターでそれを聞いたのは、北大入学から二年後のことである。話は、それから遡ること十年前の一九七一年に岩手県で起きた、痛ましい惨劇であった。
 日本の民間航空会社では、一九八五年の日本航空一二三便、通称ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山おすたかやま付近で起こした墜落事故(死者数五百二十名)に次ぐ、二番目の大事故である。
 自衛隊員はなぜか事故の起きた季節を夏から冬に変えて語っていた。他にも少なからず脚色がある。だが、彼の口振りからすると、この事故に直接関わったのは事実だと思う。
 いまだにその時の印象が鮮明に残っている。ジャーナリストでもない僕が、事故発生から五十年以上も経った今、それを短編小説としてこの世に残したいと思った。
 学生時代、僕は、東京—札幌間の飛行機に何度も搭乗している。
 当時のスチュワーデス(現在のCA)は、僕にとってまぶしい憧れの存在であった。 

  *** 

 その日、奈津子は、会社の指定する定宿のホテルで、出勤前の身支度をしていた。
 白の長袖ブラウスに紺のスカートをはいて、ウエストには細身の赤いベルトを回しつける。首には、会社のロゴの入ったネッカチーフを結んだ。そこへ、スカートと同じ色のジャケットをきっちりと着こなす。
 最後に、イヴサンローランをつけた右の人差し指で、耳の後ろをそっと触れる。香水は、商社に勤める大介からのプレゼントだ。
 部屋を出る直前に彼女は、ピンクのダウンジャケットを肩から羽織った。
 
 ホテルのエントランスに、頼んでおいたタクシーが来ていた。空港までは十数分の距離だ。間もなく二月である。奈津子を乗せたタクシーは、後ろのスパイクタイヤを空転させながら発進した。彼女はいつも通り、職場へ向かった。千歳空港には全日本五十七便(ボーイング727)が、定刻より四十五分おくれて到着していた。
 給油、荷物の積み込み、機内清掃などを済ませて、冬特有の天候がこれ以上崩れなければ、折り返し五十八便となる。
 機長ら三名はそのまま搭乗を続け、客室乗務員には新しく、二十代の女性四名が乗り込んで来た。その中に奈津子がいた。
 宮澤奈津子は、今年で二十四歳になる。父親は、札幌の生まれだ。地元の国立を卒業して銀行に就職し、いまは大通公園の本店に勤務している。母親は元小学校教諭だ。それと札幌市内の教育大に通う妹がいた。
 結局五十八便は、定刻からおよそ四十五分おくれて、午後一時三十三分に空港を離陸した。函館、そして岩手県上空を経由して羽田へ向かう。
 シートベルトのサインが消えて、彼女たち客室乗務員は、乗客に飲み物のサービスを始めていた。

 一方、航空自衛隊の練習機(F―86F)二機が、五十八便とほぼ同時刻に、宮城県の松島基地を飛び立っていた。

 猛訓練を終えて息つく暇もない一月三十日の夜、林田の隊に航空機衝突事故の一報が入った。
 全日本五十八便と、松島を飛び立った航空自衛隊の練習機のうちの一機が、岩手県の雫石町しずくいしちょうの上空で空中衝突事故を起こしたのだ。その日の午後二時過ぎのことであった。現場の空は雲ひとつない、天気のよい寒い日だった。
 林田は百三十名の部下を率いる中隊長である。階級は一尉だ。宮城県の陸上自衛隊・多賀城たがじょう駐屯地の所属である。彼らはこの一週間、雫石からもそう遠くない岩手山麓の演習場で、雪に足を取られながらも、猛訓練に明け暮れていた。
 中隊は再び、豪雪の雫石町へ向かった。到着したのは翌日未明である。町へ入ったところで血なまぐさい匂いがしていた。衝突後、双方とも操縦不能に陥り、墜落したのだった。警察、消防、地元町役場から大勢の人が出て、雪の中、すでに懸命の捜索が始まっていた。

 F―86Fの訓練生は、墜落する直前に、風防ガラスのはずれたところから、パラシュートで脱出して無事だった。だが五十八便は絶望的な状況であった。

 夜が明けてみると、木という木に、雪と氷にまみれた、おびただしい数のストッキングや下着、衣類、着物の帯が引っかかっていた。まるで七夕まつりの短冊たんざくのようだった。
 そんな中、五十八便の操縦士ら三名は、雪の山肌に激突して大破した、機首の中で発見された。
 日は昇ったが、気温は零度にも達していない。人間としての態を保っていない遺体が多かった。先頭に立って急峻な雪の斜面に分け入っていた林田が、ひとかたまりの残がいを見つけた。着雪はあるものの全日本の文字が見える。五十八便の胴体の一部であった。
 その脇へたどり着き反対側へ回ってみると、それは大きく開口していた。内部はかろうじて原形をとどめている。薄暗い、座席の傍らに、そこへ寄りかかるようにして立つ人影があった。生存者なのか!
 よく見ると、美しい顔立ちの女性である。落下速度の影響なのか、衣服のほとんどは剥ぎ取られていた。林田は、一瞬、男性の本能をたぎらせたが、すぐに己を恥じた。
 近づくと、女性の首には深いしわが一周している。彼女の首から上は、一回転していたのである。
 サッと血の気が引き、ギョッとして、声も出せなかった。彼は、ふるえる手で無線機をつかみ、応援を呼んだ。
 おやっ、ボールのような小さな雪の塊が、斜面を転げ落ちて行くぞ。次の瞬間、地響きとともに、局所の表層雪崩が始まった。林田も全日本機の残がいも、すべてが雪に埋もれてしまった。
 圧力に押しつぶされそうになりながらも、真っ暗な雪の中で彼は、残った空気を必死に吸いながら、生き延びようとしていた。だが、寒さで体力は次第に奪われていく。酸素も薄くなり、彼はうとうとと、眠りに落ちていった。

 林田信之は都立高校を卒業して国立の理系に進んだ。勉強一本の高校時代を過ごし、志望の大学に入ったのだ。だがなぜか、彼の心にはポッカリと穴が空いていた。大学の同級生たちは、誰も彼もがまるで面白味のない勉強の虫に思えた。彼は親にも内緒で、二年になった時に大学を辞めた。原点に立ち返って、自分をもう一度見つめ直したいと思ったのである。
 翌年、彼は防衛大学校に入学した。高校に入るまではボーイスカウトや登山など、彼はアウトドアを愛する子供だったのだ。卒業後は陸上自衛隊の幹部候補生となり、それから七年が過ぎていた。

 どれぐらい経ったのだろうか。彼は、次第に覚醒するのを感じていた。
「大丈夫ですか? 寒くないですか?」
 女性の呼びかける声が聞こえている。目をこらすと、全日本機の残がいの中に立っていた、あの女性である。心配そうな顔でこちらをのぞき込んでいる。
「お陰様で、なんとか大丈夫ですが…… 、少々寒いです」
 林田が答えた。
「このブランケットを使ってください」
 そういって彼女は、全日本のマークの入ったブランケット二枚を、座席の林田にかけた。
「ありがとう」
 林田は彼女の顔を下から見上げた。
「私、宮澤、宮澤奈津子といいます。この飛行機の客室乗務員です。あなたは?」
「僕は林田信之。陸上自衛隊の中隊長です。あなた方を助けに来たのですが……」
「ありがとうございます」
「あっ、いえ」
「でももう私は、あなた方とは帰れないんですよね。私もう、死んでいるんでしょ……」
 林田はどう返事をしたらよいか分からなかった。
「お願いします、林田さん。私、手紙を書くので、それを福士大介という人に届けてくださいませんか。東京にいる私の恋人なんです」

 奈津子は、大介と同じ札幌の高校を卒業して、東京の学習院女子短大へ進んだ。彼は、一浪して、早稲田の門をくぐった。
 二人は大学のサークル活動で偶然に顔を合わせた。高校の頃からなんとなく意識し合っていた二人が恋人同士になるのに時間はかからなかった。
 彼は世界を相手に働きたいといい、丸の内の総合商社に入った。彼女も、世界を飛び回る仕事がしたいと若い女性らしい希望を抱き、国際線のある日本航空を目ざした。だが最終面接でダメになり、全日本に就職を決めた。
 後悔はしていない。もともと人と接することの好きな奈津子は、現在の職場に十分な遣り甲斐を感じるようになっていた。そんな矢先の事故であった。
 
 彼女は立ったまま、機内に備えつけのメモ用紙に、短い文章を書いて渡した。それを林田は、防寒ジャケットの左の内ポケットへしまった。

 座席に眠る林田を、若い隊員たちが取り囲み、口々に叫んでいる。
「中隊長!」
「中隊長!」
 気がついた彼は次第に状況を理解した。雪崩と、全日本のロゴの入ったブランケット。そして左の内ポケットを探ってみる。やはりあった。
 取り出した二つ折りのメモ用紙を開くと、それは間違いなく、彼女の書いた手紙である。
「大介さん 楽しかった  もう一度だけ会いたかった  ありがとう 奈津子」
 彼女は、雪崩で入り込んだ雪に押し倒され、機体の床に横たわっている。首から下は雪に包まれ、その美しい顔だけが、林田の視界に入っていた。
 隊員たちは、雪を冠った木立を切って、応急の担架をこしらえた。そこへ彼女を寝かせ、持参した毛布をそっとかけてやった。
 指には、流行色のマニキュアをしていた。彼女はまだ二十四歳の客室乗務員である。
 事故は百六十二名の尊い命を奪った。その中のひとりが、宮澤奈津子だった。
 鉛色の空からはいつしか粉雪が舞っていた。
  
  ***

 衝突した訓練機には、航空自衛隊の訓練生が搭乗していた。もう一機を教官が操縦していた。自衛隊は世論の大バッシングを受けることになった。
 裁判は十年以上続いたが、教官は有罪となり、訓練生は無罪をいい渡された。
 その後、教官は自衛隊を辞め、若くして亡くなったという。
 訓練生は、戦闘機から救難機のパイロットに転向し、定年まで人命救助に尽力した、と報じられている。
 御巣鷹山の事故では四名の生存者がいたが、この事故では、民間航空機の搭乗者全員が亡くなっている。
 被害者やそのご家族にとっては、無念の一語に尽きるのだろうが、加害者となった二名もまた、それぞれの人生に大きな十字架を背負うことになった。
(完)

【あとがき】
 前半の僕の体験談であるが、実話である。僕は、自分の暮らす学生寮があった札幌市郊外の小さな酒場で、近くの札幌駐屯地の自衛隊員と知り合いになった。その年上の若手隊員からこの飛行機事故の顛末を聞かされた。彼はとても話上手で、二夜に渡ってこの話に耳を傾けた。僕にとっては、飛行機事故の話もさることながら、この隊員と居酒屋で過ごした時間が、なによりもまず思い出に残っている。枚数稼ぎの単なる付けたり、と取られるかもしれないが、それだけではないのである。
 だったら、そのことも書けばよかったではないか、と突っ込まれそうであるが、実に、その通りである。
 24歳の奈津子という女性がスチュワーデス(現在でいうCA)として悲しい結末を迎えるわけであるが、僕はこの話を書きながら、恥ずかしながら涙が溢れていた。僕自身は今もって独身であり女性には縁がない。そんな僕にとって、学生時代に同じ機内の空気を吸ったスチュワーデスは、憧れの存在として思い出深い。スチュワーデスといえば、当時は、時代を代表するハイグレードな女性の職業であり人種であった(小泉首相が非正規雇用の制度を設けるまでは)。そんな彼女たちでさえ、命を落とすことがあるのである。そのギャップというか、この世の無常が、僕にとってはとても悲しいと思えたのである。
 だったら、そのことも書けばよかったではないか、とダメ出しをもらいそうであるが、まさにお説の通りである。
 元朝日新聞校閲部長の前田安正氏が、現在、文章講座を主宰している。それに関する書籍も多数出版されている。その中に「Why」の活用というものがある。文章は5W1H(1D)で成り立っているわけだが、その中のひとつWは、Whyつまり「なぜ」である。「なぜ、主人公はその時そういったのか?」「なぜ、一団はその場所に赴いたのか?」など、読者からすれば知りたいことはたくさんある。その疑問に作品中でひとつずつ答えていくことが、Whyの活用ということである。このことにより、人物を描写し、作品として深堀りができ、引いては行間を読ます作品ともなり得るのである。
 つい先日、前田氏の著書を読んで、改めて、そのことを強く自覚させられた。
 僕の師匠にあたる近藤健からも、文学賞審査員の先生方からも、「なぜあなたは? その気持ちを書いてください」とか「なぜ彼女は泣いたのですか? もっと詳しく」などのように、Why「なぜ」のダメ出しをもらうことが多い。
 作品を綴っていると、肩に力が入って、そのあたりを十分に書けないことが往々にしてあるのである。