【作品紹介】
父は、埼玉県最北部の片田舎・羽生市の出身です。現在でいう小学校6年生の時に、先に東京へ出ていた長兄を頼って、上京しました。その後、アルバイトをしながら独力で大学まで卒業しました。
本文に登場する益田家は、現在も三井の名前を冠した企業に影響力を持っていると思います。かつては三井家の大番頭でした。歌手の岩崎宏美も、最初はこの益田家の御曹司と結婚していました。
旧華族というのは、明治維新となるまで日本全国の大名家の家族であった人々を指します。終戦となるまで、日本国政府は、この旧華族に特権を与えていました。旧華族は特に仕事を持たなくても裕福な暮らしができました。
それが終戦を機にガラッと変わってしまうのです。騙されて転落する旧華族もありました。ご息女が美貌を買われて映画女優としてデビューすることもありました。没落した家のためにお金を稼ぐ目的です。当時の女優は旧華族からは下世話な職業と見下されていました。逆に、才覚があり事業家として成功する旧華族もいました。
僕の父の父(つまり祖父)は三木家から小倉家に養子に来た人物です。三木家は、かつては、武田家の家臣であったといいます。つまり武家です。
一方、小倉家は町人で、甲府城の丸の内(城の堀の内側)で、甲州枡をつくる職人を抱える枡屋でした。
昔は、京枡、甲州枡など、全国にはいくつかの有力な枡がありました。枡というのは、酒や米や豆の量を計る、当時の度量衡のひとつでした。
その枡の製造を武田家より任されていたというのですから、小倉家は、町人としてはグレードが高かったのではないかと僕は思っています。家屋敷も丸の内に構えていたわけですから。
やがて武田家は滅び徳川家の御代となりました。旧武田家の武士は皆、優秀だったので、そのまま放置しては後に謀反の原因ともなり兼ねません。そこで徳川家が図って旧武田家の関係者を羽生城の城主である大名家に仕官させました。今でいう再就職です。
そんな経緯があり、三木家と小倉家は、山梨から羽生に移り住みました。これが、僕のルーツかな、と考えています。今でも、中央道を須玉インターで降りた近くに、小倉の里があります。正式な住所は、「山梨県北杜市須玉町小倉」。この周辺には(甲府市なども含めて)、現在でも、小倉姓を名乗る家がたくさん残っているらしいという情報があります。ただし須玉町の小倉は「こごえ」と発音します。
(※古文書などを頼りに精査したわけではありません。アバウトな部分もあるかと思います。間違いをご指摘ください)
🏅随筆春秋賞で奨励賞を受賞
小倉 一純
父、東京へ 苦学の思い出
