【はじめに】
当サイトは、僕の作品を掲載する場所である。欄外には、作品紹介やそれにまつわる思い出も綴っている。案外、そんな中から、新しい作品を思い着く。
エッセイ「救いようのない馬鹿」(小倉一純) では、半年間通った日大獣医のことに触れている。高校時代、同級生だった渡辺ユキさんとそこで再会した。生来ちゃらんぽらんな僕とは違い、ユキさんはしっかりとしたビジョンを持って大学に通っていた。彼女の立ち居振る舞いからすぐにそのことが分かった。
結局、ユキさんは獣医師として野生動物を専門領域としながら数々の実績を残している。アホウドリの天然繁殖もそのひとつだった。
以下は、上記作品の欄外に綴ったものを単独でこのページに複写したものである。
小倉 一純
【本稿について】
高校卒業後、大学で再会したとき、ユキさんから「しっかり頑張ってね」と声をかけられた。その一言が嬉しくて、今でも心に残っている。
この文章は、そのときの感謝の気持ちを込めて、今は亡きユキさんを顕彰するために綴ったものである。彼女の歩みを記録し、少しでも恩返しになればと思っている。
小倉 一純
渡辺ユキさんのこと
渡辺ユキさんについて書いておこうと思う。ここでは失礼して「ユキさん」と呼ばせていただく。
ユキさんは高校時代の同級生である。僕らが通っていたのは、東京都立富士高等学校で、中野にあった。
折しも、都立高校は、都庁が始めた「学校群制度」の只中にあった。近隣の似たようなレベルの都立高校と学校群という名称のグループをつくらせ、受験はその学校群毎に行う。合格者はその学校群に属する高校へ無作為に振り分けられる、という制度だ。受験生にとっては甚だ面白くない。何しろ、希望の高校に直接願書を提出することができないのだから。
この学校群制度は結局十五年間続いたのだが、これを契機に都立高校は凋落の一途を辿った。都立日比谷高校、都立西高校などは名門中の名門だったが、惨憺たるあり様となったのは周知の事実である。
逆に進学実績がもう一歩伸び悩んでいた都立富士高はその西高と「三十二群」というグループを結成したお陰でそのおこぼれを頂戴し、歴代最高のパフォーマンスを発揮することになった。
余談だが、そんな僕らが大学受験ともなると、今度は、「大学共通一次試験」という制度が新設された。現在の大学共通テストの走りである。学校群制度の評判が極めて悪かった影響もあってか、共通一次試験に関しても、「役所は時折り、こういう訳の分からない改革をしたがるものなんだよね」などと揶揄する声があちこちで聞かれた。
僕は、様々な都合も重なり、結局、二浪することになり、共通一次試験・元年の受験生となってしまった。遡って、一浪では日本大学の獣医学科に入学したのだったが、その時も、僕は、獣医学部六年制の第一期生となった。
こうしてみると、「都立高校学校群制度」「大学共通一次試験」「獣医学部六年制」と僕は次々と新制度の洗礼を受けている。
余談が余談を通り越して予断を許さない状況となったのでようやく本題に進む。
そんな中、ユキさんは僕の同級生となった。少なくとも三年次は同じクラスであった。スリムで美形のユキさんは男子の人気の的であった。特に、やはり同じクラスだった岩田君が、私設ファンクラブを結成していた。
ちなみにユキさんのお父さんは、イラストレーターであったと聞く。現在文筆家を目指す僕(六十代爺)からすると憧れの在宅ワーカーだったのである。ちなみに当時の岩田君の特技もイラストだった。ユキさんの姿を何枚も描いてはクリアフォルダに収めている。
ユキさんは現役で日本大学農獣医学部獣医学科に入学をした。つまり最後の四年制獣医学部の学生である。僕は同じ大学の獣医学科に一年遅れて入学したから、その時点では、ユキさんは後三年で卒業、一方僕は六年もかかるという構図になり、なんだかずいぶん損をしたと思ったことが今も記憶に新しい。
ユキさんは、卒業当初は、製薬会社などに勤務したのだったかもしれない。その後、動物病院で獣医師として働いたと聞いている。さらにその後は、自分の進路を模索していて、僕が岩田君(当時、日産自動車勤務)に誘われユキさんと喫茶店で会ったのはその頃だった。その折りは、やはり高校時代同級生だった西山君(当時、東京ガス勤務)も同席し、四人の賑やかな邂逅となった。
その後、ユキさんは、北海道は阿寒湖近くの「阿寒国際ツルセンター」に場所を移して活躍していた。アメリカで絶滅危惧種に指定されていたアホウドリに関わる仕事をしていたのだ。欄外(下)の山科鳥類研究所ブログからの抜粋を参照してもらいたい。
ユキさんは、伊豆諸島の鳥島や小笠原諸島の聟島にも恐らく赴き、一九九四年から「国内希少野生動植物種」に指定されていた、アホウドリの「天然繁殖」の成功を仲間とともに目論んでいた。
二〇〇八年に、小笠原諸島聟島でアホウドリの天然繁殖が成功し、山科鳥類研究所より正式に報告されている。
その後二〇一二年、ユキさんはスキルス癌に侵され、図らずも、五十余年の人生に幕を下ろした。
生前のユキさんにはそれなりのパートナーもいたという。私設応援団としてユキさんと文通をしていた岩田君から話を聞いた。
その岩田君だが、現在は北海道に移り住み、チェーンソーの研修を受け、狩猟免許も取得したそうだ。すでに絶滅したマタギ(熊撃ち猟師)の復活となるのだろうか。
僕らは現在六十五歳を回った。ユキさんの突然の逝去からはもう十三年(昨年二〇二四年が十三回忌)が経ってしまったのである。
(野生動物および獣医学の素人が想像で書いた部分もあり正確さに欠ける箇所のあることをお許しください)
以下P9.~P.10に渡辺ユキさんに関する記事が掲載されている。
WRV NEWS LETTER NO.81
WRVは 「特定非営利活動法人 野生動物救護獣医師教会」の略
◆PDF掲載URLは、https://www.wrvj.org/NL5/NL81all.pdf
※上記PDFを欄外(下)にもアップロードした。その他、写真入り記事も2点掲載。
小倉 一純

<WRV NEWS LETTER NO.81に掲載の渡辺ユキさん>

※WRVは 「特定非営利活動法人 野生動物救護獣医師教会」の略
※上記P.9~P.10に渡辺ユキさんに関する記事が掲載