特別扱い
以下の「例話」は僕自身の経験ではありません。ただ「特別扱い」という言葉に関して、僕なりの思いを綴ったに過ぎません。
僕自身も最近、町内会役員の順番が回ってきて、不遜ながら、お断りしたところです。開口一番、「役員は強制ではありませんからね」との言葉をかけていただきました。理解のある人ばかりで僕は助かります。役員ではありませんが、少しでも、町内のお役に立てればと思っております。
集合住宅に住むある30代の青年に「自治会役員」の仕事が回ってきた。
持ち回りで誰にでも順番が訪れる。ただ、彼には軽い知的障害があった。作業所に通所しながらわずかばかりの報酬を得て、彼は自宅で静かにテレビを観ることだけが、ささやかな楽しみだった。
役員となった場合、敷地内の草刈りや催事行事、集会所での役員会議など、外出する機会がどうしても多くなる。だが彼は外出が極度に苦手であった。
そこで彼は「僕には自治会役員はちょっと無理です」と幹事役員に告げた。すると彼女からは「特別扱いはできないから」という言葉が返ってきた。
その後、数人の幹事役員と彼とが集会所に集まり、彼はこんな文章を書かされた。
・僕には軽い知的障害があります。
・お金の計算は一応できます。
・外出はとても苦手です。
合計20項目に及ぶ文書ができあがった。これを次回の幹事役員会で、新しい役員十数人も加え、彼の自己紹介として発表することが決まった。
だが彼はその日が来る直前に自ら命を絶った。
別の場所に暮らす40歳の兄に宛てた遺書が見つかった。
「晒しものになりたくないので死にます」
兄は激怒した。なぜあんなにおとなしくて善良な弟が死ななければならないのか。弁護士を立てて裁判を起こした。相手方に対する請求金額は億に近い額となった。
しかし裁判所は、わずか数十万円の支払いを相手方の幹事役員会に命じただけであった。今回の事案では、彼の自殺を予見することは不可能であった——それが判決理由だった。
これは実際にマスコミが報じた記事を、僕が自分なりに書き直したものである。僕自身も疾患を抱えており、この「特別扱いできません」という言葉を何度聞いたことか。
これは官僚的な目線の言葉であり、精神科クリニックや町内会の自治会が使うべき言葉ではない。
本来、人は「特別扱い」されなくてはならないのだ。言い換えれば、個別対応こそがしかるべきなのである。
メンタルな疾患を持つ人は、普通、それを秘密にしておきたいと思っている。だが今の世の中では、それを守り通すことはとても難しい。
僕は敢えて自分の疾患をHPなどに晒している。これは、自虐的な趣味でそうしているわけではない。
小倉 一純

【後記:町内会と僕の今】
僕は、具体的にPTAとか町内会役員を経験したことはありません。しかし「持ち回り」といいながら、実際にはかなりの強制力が働いている現実をよく目にしました。高齢の夫婦が町内会役員になり、仕事をこなすのに大変苦労されている様子も見たことがあります。もうかなり以前のことになりますけれど。
僕の場合、自分の疾患はさておき、高齢の母の面倒をフルタイムでみています。酸素吸入機など医療器械の調子は24時間監視が必要です。よく「ヘルパーさんを使えば」と提案されますが、ヘルパーも今時の労働者。午後9時、10時まで続く町会会議の間、家族の面倒を看てもらうことは現実的には不可能です。
町内の街灯の交換も、わりと最近までは町内会の仕事でした。街灯の不具合を申し出てから交換に至るまで、結構面倒なことも経験しました。現在では、この「街灯」に関しては当地ではすべて行政の仕事となっています。
さらに僕のところでは、未だに回覧板が回っています。昭和世代の方だと、回覧板をポストに入れて、ピンポンと呼び鈴を鳴らして渡す習慣があります。昭和の頃には自然だったその行動も、今の若い方には理解されず「なぜ高齢者がピンポーンと鳴らしていくの?」と訝しく思われるようです。
僕は「町内会のあるべき姿」という大きな視点で問題を捉えたことはありません。ただ、ネットの記事などを見ると「町内会という組織のあり方は前近代的ではないか」という意見もあります。「そもそも行政がやればいいことだ」という見方です。例えば町内のゴミ捨ての問題も、今では行政に委ねている地域があります。
一方で、お祭りや盆踊りなどの催事行事は、やはり町内の人が自分たちの手で行うものです。とはいえ、それも結局は「どんなリーダー(役員)がいて、どんな空気が醸成されているか」に拠るのだと思います。町内会は「こうあるべき」という公式はないのでしょう。
残念ながら僕はこういう状態ですので、この範疇の事柄に関してはまったくお役に立てないのが現状です。けれども道路の掃除や、庭に庭園灯を設置して少しでも防犯の助けとなるようにするなど、自分にできる範囲で貢献させてもらっています。
小倉 一純


