考察:日本のエッセイについて
日本のエッセイについて考察してみようと思う。
僕は、文筆や出版も含んだマスコミとはそれまでまったく縁のない人生を送ってきた。この世界に飛び込んだのは57歳である。そんな僕は最近、直木賞作家・石田衣良のYoutubeの有料番組で勉強している。石田氏は、僕とはほぼ同年代である。学校群制度の時代に都立高校に通っていた。石田氏の出身校はその学校群の中ではトップクラスの高校だった。氏は、その頃受験には全く関心がなく成蹊大学に進み卒業している。ただ元々頭がとてもよく、子供の頃は1週間分のテレビ番組をすべて暗記していたという。社会人として広告業界に進んでからは、例え相手が東大出であっても、1対1で仕事をしたら絶対に負ける気がしなかったそうである。石田氏は、番組では、元新聞記者の男性と、声優プロダクションを運営する女性の、2人の若手を相棒としている。氏は、物事を要領よくまとめる力があり、説明も明快だ。さすが、エンタメ界の大御所である。それと、広告業界から作家へ転身した経歴がものをいうのか、出版も含むマスコミ全体を俯瞰した現状を巧みに説明している。僕のようにいい歳をした新参者にはとても有難い先生である。
その石田衣良氏がエッセイについてこう説明する。「小説を書くのに10の力が必要とするならば、エッセイは3ぐらいかな!」残念ながらこの説明には異議を唱えたい。石田氏がいうのは、名の通った小説家が副業としてエッセイを書く場合の実感である。小説家とは、登場人物という役者たちに芝居をさせそれを読者に見せる職業である。その小説では自分自身を大衆に売り込むことはできない。一方、エッセイは作家本人のキャラクターを大衆に売り込む場である、というのは石田氏の言葉。上手いことをいう。そんなエッセイで小説家は気の利いたことを書き読者を喜ばせる。本業の小説を本気の10で書くならば、エッセイの場合は、余裕の3で綴ることができる、というのが石田氏のエッセイに対する見解である。エッセイの文章量が少ないからその分、仕事量も少なくて済むというような見方とは違う。文筆には、俳句や現代詩もあるはずだが、それらについて石田氏は言及していない。
僕が考えるに、少なくとも日本においては、そもそもエッセイという分野が確立されていないから、そのため、甘くみられるのではないかと思う。千年前に清少納言が『枕草子』を書いて以来、日本では「エッセイとは何ぞや」という命題に答えが出ていない。言い換えれば、人の数だけ「エッセイとは?」の解が存在してしまう。現状では、エッセイは、小説家やその他著名人の副業という立場であり、また彼らの子息がエッセイを書いて文筆家としてデビューする。エッセイはとっつきやすいのは事実だが、極めるのは実は難しい。それは俳句や現代詩と同様である。小説>エッセイ>現代詩>俳句といくに従って文字数は少なくなる。つまり、言葉の入れ替えが利かなくなる傾向にあるのだ。小説がいい加減だといっているわけではない。昨今ではコンテンツはどれも消費されるものだが、エッセイとは、本来は、俳句や現代詩と同様、何度も繰り返し読み、味わうものだと僕は思っている。少なくとも、僕は、随筆春秋会員として、そういうエッセイを書きたいと常に思っている。大学受験を意識したいい方では、エッセイには、大別して、「説明的エッセイ」と「物語的エッセイ」との2種類がある。そして僕らが関わっているのは「物語的エッセイ」の方である。外部の人が、随筆春秋の近藤代表の作品を読んで「まるで小説みたいだ」と評することがよくある。
日本で総じてエッセイの地位が低いのは、このように、文芸の一分野としてのエッセイというものが未だ確立していないからである。従って、エッセイスト専業で商業デビューするのは難しい。偶然、その企画が出版社の目に留まり、エッセイストとしてデビューする場合もあるが、それは極めて少数派だ。例えば、随筆春秋の中山庸子先生※などはそのひとりである。
白洲正子という随筆家がいるが、知る人ぞ知る存在である。戦後、時の宰相・吉田茂の片腕として辣腕を振るいマッカーサー(進駐軍つまり終戦後日本に駐留した連合国軍の最高司令官)に「従順ならざる唯一の日本人」といわせた白洲次郎の妻である。「武相荘」と命名された(武蔵国=東京と、相模国=神奈川県との県境あたりに位置し、白洲次郎がぶっきら棒=無愛想であったことから)、豪農の邸を移築した住まいが、拙宅からもそう遠くないところにある。小田急線鶴川駅(東京都町田市)が最寄りである。現在は、記念資料館のようになっている。たびたび訪ねて来たという吉田茂のステッキなども展示されている。白洲正子はレベルの高い教養人であり文化人であった。芸術や演劇に関する事柄などをエッセイとして綴り、多くの優れた作品を残している。年配の教職経験者などは、白洲正子の著作は今時の高校生にもぜひ読ませたいものだ、と熱く推す。そんな白洲正子だが、文章にはとても厳しい人だった。文芸評論家の小林秀雄などとも親交が深かったという。白洲正子の場合、逆に、当時の小説家連中からもリスペクトされる存在であった。
長々と書いてきたが、つまり僕がいいたいのは、エッセイはジャンルとして確立していないという側面があるものの、例えば俳句や現代詩そして小説にも負けない、文芸のひとつの分野なのだ、ということである。
※中山庸子先生:美大卒業後は高校で美術の教師をしていた。美術教師 → イラストレーター → ライター → エッセイス トというステップを踏んだ。出版社に認められたのは挿絵のイラストと文章をセットで発表したことだったという。
追記:
随筆春秋で最初に教わったのは、「エッセイは原稿用紙5枚の小宇宙である」ということだった。これが、黄金律である。8年前の入会当時は、文章を綴るペースがまったく掴めず、ディテールを書き込み過ぎて注意された。「それでは小説になってしまいますよ、小倉さん」
エッセイでは、多くの文学賞で10枚、黄金律として5枚、新聞連載では3枚という目安がある。その制限の中で「起承転結」を完成させる必要がある。そこから逆算し、ディテールの密度も調整しなければならない。
俳句や現代詩に比べ、エッセイが小説に近いからといって、佐藤愛子先生の著作『血脈』のような内容をエッセイに盛り込むことは不可能である。『血脈』は超大作で、佐藤家の問題児揃いの男性系譜を描いた小説である。父親で作家の佐藤紅緑や、腹違いの兄で詩人のサトウハチローをはじめ、その弟たちのことなどを克明に綴っている。家族の系譜を描く作品の場合、膨大な文字数ですべてを描き切ることで、初めて、「ああ、そうだったのか」という読後感を読者に与えることができる。エッセイの場合、そこが限界となる。超えたければ、小説家になるしかない。
ただ、俳人や現代詩人の場合も、同じなのかというと、そうではない。俳句や現代詩では、使われる言葉は作者の感性による、選りすぐりのものばかりである。ノーベル文学賞作家の大江健三郎やその候補となった井上靖は、現代詩を愛した。大江はNHKのインタビューで「一番好きな表現方法は現代詩ですが、僕には書けません」と語っている。現代詩人でもあった井上は、家族を支えるために小説家になったが、生涯、飯の食えない、現代詩の作家たちを援助し続けた。
つまり、エッセイが描き切れないものを「超える」には小説という形式が必要になるが、俳句や現代詩においては、「超える」という発想そのものが生まれない。なぜなら、そこでは選りすぐりの言葉によって、すでに感性の極致が表現されているからだ。俳句や現代詩はそういうプラットフォームでありそのスタイルも確立されている。
エッセイは、小説にも俳句や現代詩にも成り切れないが、その中途半端さこそが(いい換えれば、フレキシビリティの高さこそが)、原稿用紙5枚の小宇宙にしか宿らない、唯一無二の輝きともなる。
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文とCG:小倉 一純
『白洲正子自伝』 (←click! Amazonへ) のご紹介
・著者:白洲正子
・初版:1999年(新潮文庫版)
・ページ数:約300ページ
内容:
・幼少期の記憶(麹町の旧家に生まれた華族の娘としての生活)
・能との出会いと舞台経験
・アメリカ留学と文化的衝撃
・白洲次郎との結婚生活
・鶴川村への移住と骨董・古美術への傾倒
・旅と出会い、そして美の探求
この本では、彼女自身の言葉で「白洲正子という人はいかにして白洲正子になったのか」が語られています。単なる回顧録ではなく、彼女の美意識や思想形成の過程が随所にちりばめられており、まさに“魂の自伝”とも言える一冊です。白洲正子は、小説こそ書きませんでしたが、卓越した感性と教養に裏打ちされた彼女の文章は、小説の一節を思わせると評されています。
