イジメと夜叉
青いゴム製のグリップを握りしめ、刃先をまっすぐ前に向け、夜叉の形相となった僕は、突進を開始した。このままいけば手に持っている大工道具のノミは、間違いなく、相手の胸に突き刺さる。
中学校の大きな玄関を入ってすぐの、下駄箱の集積したエリアで、両側からそれが迫る細長い空間で、彼はこちらを向き、後ずさっていた。
顔が恐怖に歪んでいる。その背中がどん詰まりの壁に突き当たると、今度は腰砕けとなり、こちらを向いたまま今にもへたり込みそうになった。
そこへ僕は体当たりをして、そのあばら骨の間に、鋭いノミの刃を突き立てた。
相手の顔面から血の気が引き、青くなった。口からは、白い泡を吹き出している。黒い学生ズボンの下からのぞく、くるぶしのところに、一筋の液体が、うす黄色の軌跡を残して滴り落ちた。
「わかった。わかったから」
相手は同じセリフを10回も吐いただろうか。僕はそのノミを大工道具の入った樹脂製のケースに収め、その場を黙って立ち去ろうとした。
ちょうどその時、技術家庭科の担任である大久保先生が通りかかった。
ノミは、その大久保先生が教える技術家庭科の授業で使うもので、持ち手つきのグレーの樹脂ケースの中にセットされているものだった。区立中学の学習教材の一貫として共同購入していた。
中学には通称「ターチャン」と呼ばれた番長がいた。裏バンである。本名は知らない。最上級生だ。相手はその番長と同学年の仲間だった。一方、僕はまだ中学1年生だ。
立ち去り際、技術家庭室の入口の引き戸の前で大久保先生と鉢合わせになった。予期された偶然だったのかもしれない。
「さっきは大丈夫だったのか?」
「はい」
会話はそれだけだった。ただ、大久保先生はとても心配そうな顔つきをしていた。
当時は、イジメやそれについて訴えがあれば学校当局が必ず対応するとか、弁護士や場合によっては警察が介入するなど、そういう空気感はあまりなかったように思う。
もっとも、誰かが怪我をするとか、それ以上の事態がもし起こってしまえば、その場合は、いわずもがなである。
僕には、生得の発達障害がある。この場合の「発達」とは、育て方や成長過程といった場合の発達、つまり”grow”の意味ではない。生物学の教科書に出てくる、肉体や神経組織の成熟をあらわす発達、要するに”develop”の意味なのだ。だから親の躾とはあまり関係がない。後年50歳を過ぎてから僕は自分の発達障害を専門医から告げられた。
最近は、その発達障害の人間が当事者として自分の障害について記述した本も多く出回っている。その分野では、「医学書院」という出版社が有名だ。
発達障害の人間であるが、彼らは「イジメ」に遭いやすい。
普段の体の動きが健常者のそれとは違い、発達障害者は、大勢の中でも、人目に付きやすい。それに要領もよくないから、トロくさいところも大いに目立つ。否が応でも、イジメの標的となりやすいのだ。
極論をいってしまえば、そもそも学校という場所が、異常なところである。それがイジメの温床となるのも無理もないということだ。なにせ同じ年頃の子供ばかりを数百人も集めて、入れ替え無しで、3年も6年も、半強制的に時間を共有しなければならない。
江戸時代が終わり明治時代以降、日本は、仏を捨て神を奉り、富国強兵の号令のもと、国を、軍事国家へと導いてきた。
そのために必要なのが軍隊であった。兵隊は、同じ地域から、一定年齢に達した同じ年代の子供ばかりを集めて、徴兵する。そして、兵舎という全寮制の宿舎に彼らを押し込める。そこで日々厳しい軍事教練が行われる。
これが学校である。学校とは、そういう軍隊の発想から生まれた、国家の教育システムなのであった。
一般の社会、例えば、町内会では、老若男女さまざまな年齢層・階層の人間が寄り集まっている。そういうところでは、喧嘩もあるだろうが、誰かが必ずそれを制してくれる。イジメなどが起こりにくい集団といえる。ところが、学校はそうではない。
そんな学校で僕は番長グループのひとりに目を付けられ、日々、イジメに遭っていた。ある日、とうとう、そんな僕の堪忍袋、トリガーが堰を切ったのである。冒頭に記したのはその直後の出来事であった。
「イジメです」
「学校の先生にいいなさい」
「今度は、事件です」
「警察に通報してください」
ごもっともなことであると思う。しかし、イジメや事件は、会議室で起こっているのではない。
では、当事者は、一体、どうしたらいいのか。
僕は今年で66歳のジジイになるが、本当のところ、これに関する正しい答えなど知らない。
そんな僕の親戚には、教育者が多くいる。大学の先生、中学の先生、幼稚園の教諭、病院の先生、薬剤師の先生、皆、先生商売である。
そんな親戚に向かってつい最近だが、冒頭の件について尋ねたことがあった。
「先生に相談するべきだったと思うわッ」
「もし事件にでもなったら警察に通報すればいいのよ!」
しかし、下駄箱の靴を捨てられ、代わりに汚物を突っ込まれ、顔をぶん殴られるのは、僕である。そんな刹那に、
「ああ、先生」
「ねえ、おまわりさん」
と空に向かって呪文を唱えれば、スーパーマンよろしく、先生や警察官は、マントを翻して飛んで来てくれるのであろうか。
かの福沢諭吉はいった。
「ペンは剣よりも強し」
福沢諭吉は明治時代の教育者で啓蒙思想家である。啓蒙とは、難しいことを分かりやすく説いて聞かせるという意味だ。教育も、啓蒙のひとつである。
子供の頃、僕は母親に偉人伝全集を与えられ、読み耽った時期があった。福沢諭吉は、勉強家であり努力家であった。若い頃は、大阪にある緒方洪庵の私塾で、仲間とともに、今でいう寮生活を送っていた。
深夜眠気が差すと、庭先の井戸で水浴びをして、明け方まで勉強を続けたという。
その福沢諭吉が、ペンは剣よりも強い、といっているのだから、これは間違いがないのだろうと僕も確信をしている。かくいう僕も、恥ずかしながら、現在、文筆家を目指し修行中だ。
しかし、大人になってから、その人生を学び直すと、福沢諭吉は、亡くなるまで、毎日、自宅の庭先で真剣を振るい、居合いの鍛錬を続けていた。
本当に刃の付いた重量のある日本刀で、剣道の竹刀のように素振りの訓練をして、己の肉体の鍛錬を怠らなかった、ということである。下級武士ながら福沢も武士であったのだ。
そういうことなのである。
イジメはピタリと止んだ。その後、何回か番長グループと廊下ですれ違ったが、彼らは何かヒソヒソ話しながら遠巻きに僕を見送った。
実は、くだんのノミの刃先には、透明の強固な樹脂製キャップが被っていた。
それから3週間ぐらい経って、出来事のあった下駄箱の前で大久保先生に呼び止められた。
「この間のこと、教職員会議やPTA会議で取り上げてもいいんだよ?」
「……」
「でもね、そうすると、おぐらくん自身にも、かなりの負担がかかってくるから」
「あっ、そうなんですか……」
「もちろん、彼には、こちらから、釘を刺しておいたけどね」
「あっ、はい」
「もし何かあったら、遠慮なく、いってきなさい」
大久保先生は、僕の記憶では50歳手前の、やせ型で少し頼りない感じのする、優しい男の先生だった。生まれて初めて作った木製の本箱に、先生は74点という点数を付けた。4点という端数は一体、どういう風に評価したのだろうか。今でもこの木製の本箱は、我家の高齢の母親が使っている。この本箱を見るたびに、僕はこの出来事を思い出すのである。
小倉 一純
