テキヤのアルバイト

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札幌市、大通り公園からさっぽろテレビ塔を臨む(フォトACより)

テキヤのアルバイト


 事情があり結局2年間浪人して札幌の北海道大学にようやく入学を果たした。1979年春のことである。
 文系の中でも主に経済学部へ進学するコースで、「文Ⅱ系」という括りの学生となった。東大の「文Ⅱ」をイメージさせる。ちょっとカッコイイ。
 6月を迎えていた。札幌ではライラックの花が咲き乱れ、春と夏とが一度にやって来る。観光シーズンの幕開けである。日が少々照っても蒸し暑くはならず、空気はさらりと乾いている。アメリカ西海岸を思わせる。日本の大都市で、こんな初夏の気候を味わえるのは札幌くらいのものだろう。
 同じクラスに森部という友人ができた。名古屋出身だ。1浪で入学している。純文学のファンで、そこが僕との接点だった。中でも彼はマニアックなものが好みで、夢野久作を僕に紹介してくれた。夢野、といえば存命当時、著作が事実上の発禁となるなど、極めて個性的な作品を世に残した作家である。
 その森部から誘われた。バイトに行くから一緒に来ないか、というのである。僕は普段サイクリング車で学校に通っていたが、その時は2人で地下鉄に乗りバイト先まで赴いた。
 札幌の地下鉄は車輪がゴムタイヤになっていて、軌道に普通の線路はなく、コンクリ打ちになっている。そこをゴムタイヤで走行する。車両下部の中央でモノレールを挟み込み、それが線路の代わりである。
 東京などの超過密都市とは違い、札幌の朝夕の通勤ラッシュは地獄とまではいかない。そのせいか、札幌の地下鉄はかなり急な加速をする。それと、ゴムタイヤがコンクリート面のゴツゴツを拾い、それがその加速感と相まって、旅客機の離陸を思わせた。
  僕らは大通駅で下車した。地上に出ると眩い光に照らされた花壇の色とりどりの花が目に映る。この大通公園は、札幌市街地の中核的存在で、さっぽろテレビ塔から始まって西に向かい、円山まるやまという小さな原生林の山に突き当たるところまで続いている、都市型の公園だ。花壇のほかに木立の植林、噴水などもあり、札幌の観光スポットとなっている。
 雛壇にバナナを並べ、その前で寅さん(松竹株式会社の映画『男はつらいよ』主演の渥美清が演じる役どころ)よろしく茶色の腹巻をして、淡いグリーンの薄手の作業服の上下を着込んだオヤジが立ってこちらを睨んでいた。
「お前らか、今度入ったバイトというのは」
「はい、こっちはクラスメートです」
「まあいいや、友達には金は出せないけど好きにしな」
「よろしくお願いします」
「おうッ」
 僕も一応の挨拶を済ませた。オヤジだが、どう見ても堅気ではない。いわゆるテキヤという商売をやっている人だ。寅さんと同じである。当時はまだ暴力団対策法、通称暴対法がない時代で、テキヤは警察からは暴力団とは見なされていなかった。その証拠に、アルバイトは北大の学生課で森部が紹介されたものだった。
 テキヤには「ばいのセリフ」というものがある。一般的には「口上」といえば通りがいいだろうか。『男はつらいよ』の映画の中で寅さんこと渥美清がそのシーンを好演しているが、セリフはすべて本物であるそうだ。渥美清が子供の頃、テキヤが売を行なうところを目の当たりにして、それを覚えてしまっていたらしい。門前の小僧、習わぬ経を読む、というやつである。
「四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋な姉ちゃん立ち小便」
「四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水臭い」
「ヤケのヤンパチ日焼けのなすび、色が黒くて食いつきたいが、あたしゃ入れ歯で歯がたたないよときやがった」
 これが寅さんの決めセリフの口上の一部である。(放送禁止と思しき一節もあるが歴史的言葉遣いということで了承願いたい)
 学生の僕らにいきなりこんな口上はできない。叩き売りというからには、厚紙を丸めてつくった棒のようなものが用意されていて、それを売り言葉の切れ目切れ目でバンバンと雛壇の平面に叩きつけ、売の調子をとるのだそうだ。講談に似ている。
 最初の客はショルダーバックを肩に掛けた中年男性だった。空腹だったのか、雛壇に並んだバナナを見て「いくら」と聞くと、金を払いさっさと立ち去ってしまった。オヤジの口上を見る間もなかった。
 そのオヤジであるが、自転車でこの場所へ毎日来ているらしい。店を出すための資材や商品は恐らくテキヤの上部組織が軽トラックなどで運んでいたのではないだろうか。テキヤにも「〇〇一家」などという正式な屋号があった。
「おい、学生」
「なんですか?」
「俺の自転車、チェーンが外れちゃってるんだ。直しといてくれ」
「分かりました。でもオジサン、これサイクリング車と違って、チェーンカバーで中のチェーンが見えないから、僕にはお手上げッスよ」
「なんだ、お前ら! 大学生のくせに自転車の修理もできないのか」
 このオヤジ、その後も様々な用事を僕らに依頼し、それが叶わないと、そのたびに「大学生のくせに」を連発した。
「僕たち経済学部に進学予定の学生だからこういうのは無理ですよ」
 正論を返しても無駄であった。
 その用事の内容なのだが、やたらと隣のトウモロコシ売場のおばさん絡みの案件が多かった。こちらはテキヤとは無関係の商売である。遊園地にでもあるようなポップなデザインの小さな建物で、感じのいいおばさんが、トウモロコシを炭火で焼いていた。砂糖醤油のタレの甘い匂いがあたりに漂っている。
「そろそろ昼だな。腹も減っただろうから、隣のおばさんにこのバナナ、持っていってやんな!」
 その時、森部がいった。
「オジサン、隣のおばさんのこと、好きなんじゃないですかッ」
 それをいっちゃお終いよ(寅さんのある意味、決めセリフ)とオヤジが思ったかどうか分からないが、
「お前ら、子供のくせに、大人をからかうもんじゃない」
 その時のオヤジはちょっと腰砕けで言葉に覇気がなかった。図星だったのである。
 その頃、二十歳そこそこだった僕らには、中年女性の魅力など分からなかったが、今考えるとテキヤのオヤジは独身だったし、オヤジは間違いなく隣のトウモロコシ売場の彼女に恋愛感情を抱いていた。大人の恋というやつである。
 その日は結局、午後3時頃までそこにいて開放された。客も集まらず、オヤジの寅さんばりの口上シーンを見ることはとうとうできなかった。
 バイトといっても僕はその日、付き合いで来ただけだったから報酬はなく、森部とは最寄りの大通駅の地下へ続く階段の前で別れた。テキヤの現場に赴いたのもその日だけだった。大学での講義は自主休校とした。つまりサボりである。当時は出欠をとらない学科も多かった。
 教養部1年生の時の思い出である。
 1992年、暴対法の施行以降、テキヤも暴力団と見なされるようになっていた。最近では、その様相にも少しずつ変化が現れている。既存のテキヤが解散し、真っ当な株式会社として生まれ変わる例も少なくないという。

 小倉 一純

森部君であるが、経済学部卒業後は、東京丸の内に本社のある三菱電機に就職した。配属は財務部ではなかったか。その後、会社を早期退職し、現在は都心で税理士事務所を開いていると風の便りに聞く。

大通り公園は西に向かい円山(原生林の小さな山)まで続く(フォトACより)