僕の恩師

標高700mの自然農園・耕福塾
最前列が、伊藤孝一先生。前から2列目中央の髭仙人が、渡辺勝市 翁。最後列1番右は、今村 勉 事務長、同左から2番目メガネが僕
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【作品紹介】

伊藤孝一先生は、関東学院大学で事務長に次ぐ、国際交流センター・初代室長でした。若い頃より、内村鑑三うちむらかんぞう(札幌農学校2期生、現北海道大学)の提唱した無教会主義に傾倒していました。先生は、プロテスタントでした。ある時期より自分のキリスト教徒としての活動に限界を感じ、そんな折り、「自然農法」を提唱する世界救世教に関心を持ち、入信しました。そして、岐阜県恵那郡串原村えなぐんくしはらむら(現在は、岐阜県恵那市串原)の山中にある串原くしはらセンター・耕福塾こうふくじゅく舎監しゃかんとなりました。そこに31歳という最年長で東京から入塾したのが僕でした。串原センターでは、標高700mの高地で、自然農法を実践していました。
人生何事も上手くいかなくなると、宗教の門を叩くのは世の常です。僕もそのひとりでした。教祖である岡田茂吉の著した『御教え』と呼ばれる経典が面白かったというのが入信の動機です。僕は、宗教にはとても関心があり、救世教のほかにも、北鎌倉にある円覚寺での座禅修養とか、奈良県にある天理教本部への訪問など、いろいろな宗教体験をしました。新興宗教はうさん臭くて、結婚式のキリスト教や、葬式の仏教は有難いという構図は一体なぜなのだろうかと疑問に思いました。どんな宗教団体でも、風通しの良くない組織は、内部に何かしら問題を抱えているものだと思います。
世界救世教は、僕が入信した頃も、巷にはたくさんの別派が存在しました。この宗教の成立に絡む歴史にその原因があるようです。当時は、名古屋の支部(名古屋教会)がイニシアティブを取っていて、「耕福塾」の創始者である渡辺勝市かついち先生もこの名古屋の所属でした。子息である、渡辺哲男てつお先生もその後すぐに世界救世教の総長となりましたが、2013年と思いのほか早く亡くなってしまわれました。現在は、予てよりのライバルであった鎌倉教会が主導権を握っているようです。耕福塾も、塾ではない単なる耕福農園となっています。現在、僕は宗教活動を行なっていません。

小倉 一純

当時の思い出話」

渡辺勝市かついち先生と、総長となられたご子息の哲男てつお先生のご自宅は、名古屋市の八事やごとという、東京の田園調布のような閑静な住宅街にございました。広大なお屋敷では、勝市先生の奥様が中心となり、門下生に家事全般や生け花、お琴などを教えていらっしゃいました。驚いたことに、門下生の中には、専属のドライバーが運転する白のロールスロイスでお稽古に通われるお嬢様もいらっしゃいました。私たち耕福塾の塾生は、その立派な門を入ってすぐのところにある大きな池の掃除を時々お手伝いさせていただきました。真夏の暑い日などには、思わずパンツ一丁になることもございましたが、お稽古に通われるお嬢様は、そのような私たちの様子を全く意に介することもなく、奥へと優雅に進んでいかれたのを覚えています。思い返すと、池の掃除をしながら見せていた、皆の、あの悪戯っぽくも、どこか誇らしげな笑顔が今もまぶたに浮かぶようでございます。懐かしい、当時の思い出話でございました。

小倉 一純

※30年以上以前の話です。現在ですと、セクハラ・モラハラの範疇に入ると思いますが、当時は「若気の至り」というタグで、世間の承認を得ていたかも、と思います(汗)。

メルヘン童画家・桜井一雄 作『耕福塾イラスト』